日記08/23『青い部屋』

 中学生の頃、私の家族は団地の六階から白い壁の一軒家へと引っ越して、私は初めて自分だけの部屋というものを与えられた。畳三畳ぐらいのそのひどく狭い部屋の壁に私はペンキを塗って青一色にした。天井も同じように青く塗ったのだけれど、所々元の壁の白い部分も残してそうやって空に浮かぶふんわりとした雲々を表現した。その部屋は狭いからもちろんベッドではなく布団を敷いてよく私はその上に寝転び青い海の底に沈み込んでいるような気分を味わった。夜明かりを消すときも朝起きたときも瞼を開くとそこに青い空と白い雲があった。小さい部屋にしては少し大きな曇り硝子の窓を開けると本物の青い空と白い雲があった。でもその本物の空は近所の家の建物や庭の樹々に遮られて切れ端しか見えない、不完全な空だった。

 何故、中学生の私は部屋の壁や天井を青色で覆ったのだろうか。狭い空間を広く感じさせる青色の心理的効果を知っていたのだろうか。思い出すことが出来ない。でも私は短くはない時を経て再び青の世界を求め始めている。青いものに取り囲まれたいと願っている。ずっとあの青い部屋のことなど記憶の底に忘れていたのに私のなかであの青い部屋が復活し始めている。あのひどく狭い、窓からは近所の家の建物や庭の樹々に遮られた空の切れ端しか見えないあの部屋。

 もう隠すことはやめよう。私はずっと変わることなくあの青い部屋のなかへ閉じ込められていたのだ。街のなかを歩いているときも川辺の道を走っているときも木陰のベンチの上で誰かと話しているときも、片時も変わることなく私はあの部屋のなかに閉じ込められ、私の顔の二つの窓にはいつもあの不完全な空が映っていた。あの青い部屋は私だった。でも私はそれを見ないようにしてきた。その嘘が年月とともに風化しばらばらと崩れ始めたのだ。私は今もあの部屋にいる。しかし今の私の部屋は壁も青くないし天井も青くない。だから私は青いものを求め始めたのだ。空間を、無限の空間を求め始めた。それはあの空だ。それはあの海だ。その青さのなかだけで私は呼吸出来る。私は青の世界の住人だった。

 さて、私は再びあの青い部屋をつくりあげなければならない。でも、今度はペンキの筆ではなく一本の鉛筆、或いはキーボードによって。紡ぎ出す言葉であの青い部屋をつくるんだ。あの青い空の故郷から私を叩き落した呪いの黒い言葉を解く魔法の青い言葉を探して。

日記08/21『小さな貝の夢』

 オーロラの海を漂うくらげの群れ。穏やかな音楽のような光の輪郭に包まれて、心優しいくらげたち、瞳のない海の妖精が水の上へ、真っ白な太陽の光のなかへと溶けていく。僕はそんなくらげたちの上昇を深い海の底から見ている。まるで糸の切れてしまった凧を見上げる幼い子供のように。僕は沈黙の海底に横たわる一匹の貝だった。『ああ、なんて遠いんだ』『僕には遠すぎるあの光。僕は飛ぶことが出来ない。僕の身体はひどく重くてあのくらげたちのようには飛んでいくことが出来ない』だから僕は‥‥。海の底の貝は裂けてしまいそうなくらい口を大きく開き始めた。まるで音符のように透明な泡がいくつも浮き上がる。「だめだよ。そんなに口を開いてしまったら身体が裂けてしまう」周りを泳いでいた魚が語りかける。だけどもうその貝には何も聞こえていない。貝はまた更に大きく口を開く。貝の中の身体が見えなくなるほど裂けた口にあふれかえる透明な泡。重なり合うたくさんの音符たち。叫び声をあげて両目を覆う魚。決して戻ることの出来ない何かが切れるひとつの大きな音が響いた。

 ぶくぶく、ぶくぶく。まるく透明な泡が水のなかを昇り始める。ゆっくりとゆっくりと。小さな貝の歌が、憧れが、祈りが穏やかな音楽のような光の輪郭に包まれて、心優しいくらげたち、瞳のない海の妖精たちとともにオーロラの海から水の上へ、真っ白な太陽の光のなかへと溶けていく。

日記08/20『太陽の祭壇』

 赫々たる日光。今日も噎せ返るほど太陽を浴びた。道を歩けば何処でも陽に当たる。夏は木の陰にすらその版図を拡大していた。うなだれて俯き蒼白いビルの建物のなかへ、夏の外へと足早に避難していく人間たち。しかし私はというと止せば良いのに昼の休憩の時間、あの空の暴君が最も苛烈な鞭を振るい始めるその時間、またあの場所へと足を運んでしまった。

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 太陽の神殿。愛着と敬慕の念を込めて心密かに私がそう呼んでいるその建物は街の中心から少し離れた並木道の端にある。三段重ねの石段の上に建つ白い骨組みだけの構造物。日光に照らされて煌々と純白の輝きを放つその姿はまるで古代希臘の遺跡を前にしているようだ。今日も私はその周囲を森の奥の湖のように囲う緑の原を掻き分けて太陽の神殿に昇った。一段、二段、三段。黒い鞄を石の床に下ろして八つある柱の一本の根元の横へ腰掛ける。激しい雷雨のように。日光は屋根のない頭上から容赦なく降り注ぎ、既に火傷しそうなくらい熱くなった床石の表面とともに私の頭や腕、全身を焼き焦がす。夥しい汗の雫。鞄から麦茶を取り出し、既にぬるくなったその茶色い飲み物を一気に飲み干す。今日も私はここに来てしまった。木陰はすぐそこにあるのに、冷房の効いた喫茶店もすぐ近くにあるのに、今私は太陽に焼かれて無意味に体力を消耗している。時折、周囲を通り掛かる人々が怪訝そうな瞳でこちらを見ている。しかしそんな薄弱な視線の光も忽ち圧倒的な夏の太陽の光のなかへと飲み込まれていく。これは神聖な交流の儀式なのだ。太陽と私。彼と私だけがここにいる。空になった麦茶の容器を脇に寄せて私は仰向けに寝そべった。太陽とのくちづけ。

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 太陽!太陽!完全な太陽!--『三島由紀夫紀行文集』

 三島由紀夫の処女航海。広大な青の世界へと旅に出た船のデッキの上で彼は太陽と再会した。完璧な太陽と再会した。その同じ太陽がぎらつく眼差しで私の全身全存在を刺し貫いている。余分なものはすべて汗となって更に蒸発し消えていく。余分なもの、それは想像力だ。

恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、想像力はたえず働きかけてくる。--シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 しかし、思考は本質的に夜に属するのではないだろうか?言葉による創造は、必然的に、夜の熱い闇のなかで営まれるのではないだろうか?--三島由紀夫『太陽と鉄』

 思考も現実と私を遠ざけるあの悪しき想像力の一種にしか過ぎない。それはこの低き地上に私の存在を繋ぎとめる足枷だ。しかしその足枷をばねのようにして、抵抗装置として使用し、あの青い空へ飛んでいった人間たちが居た。だから人々はそんな彼らの姿を見て思考を想像力を翼なのだと勘違いしてしまった。結局彼らは重い足枷に引きずられて地上よりもっと低く暗黒の地下へ沈み込んでいった。私もかつては夜の鳥だった。想像の翼で空を駆けていると思い込んでいた。しかし五年の間、ただひたすら無意味に豪奢に太陽の炎を浴び続けて、私の夜はすっかりと蒸発して無くなってしまった。思考力や感性、想像力を私は失った。最終的に残ったもの、それは有無を言わさず突き付けられるナイフの先端、白昼の表面だった。

 私は肉体の縁と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかった。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。--三島由紀夫『太陽と鉄』

 神秘は深さのなかではなく表面にある。聖なる世界は深海のなかではなく青い波の表面に、宇宙にではなくあの青い空の表面にある。見ること、決して飛ぶことなく、遥か地の底、この石の床の上から青い空をただ見続けること、そして両目を焼かれること、それ以上に高くあの神聖へ飛翔する翼は人間に与えられてはいないのだ。三島は谷崎潤一郎論のなかで谷崎を表面へのダイバーと評した。私も潜ろう。表面の表面へ。豊穣なあまりにも豊穣なあの海は明日も私の頭の上に青く輝いているはずだから。

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日記08/19『青について』

 青、それは一体何だろう。

 遠くから見ると青色で近付くと段々薄くなり手の平で掬うと透明だ。遠くから眺める透明の色、それが青だ。青色は距離。不可能との距離の色。青い薔薇は不可能を表す。見えないものが見える。近くからでは見えない。遠くからだと見える。

 空は青い。しかしその中身は透明だ。鳥はその透明のなかを泳ぐ。何にもない虚空を泳ぐ。だが、その頭上や視界の彼方に青はまだある。その青を追い掛けて鳥は空を泳ぐ。青い薔薇を追い掛けている。神様が植えた一輪の巨大な薔薇の花を。

 青、それは不可能な距離。同時にそれは永遠の長さ。青は永遠なのだ。私は永遠を求めている?それは時間ではない。空間の永遠的な広がり。私は閉じ込められている。街は海から遥かに遠く、空は段々と上に遠ざかっていく。階段は何処だ?空へと青へと駆け上がる階段。それはあの灰色の高層ビルのなかにはない。螺旋の階段が必要だ。くるくると廻るうちに私はあの空の青へと到達する。それは青い薔薇のように。

 青、それは透明だ。透明なものと不透明なものの距離。私は青くない。私は不透明だから。遠くから見た私はきっと蟻のように黒いだろう。私は黒。不透明な色。でも私の意識は?きっと透明だ。遠くから見れば私の意識は青いのだろう。しかしその青さは不透明な黒い肉体によって覆い隠されて見えない。身体はある。だから私はこの地上に縛り付けられている。もし仮に肉体、その黒く重たい衣装を剥がされたとしたら、私は青そのものとなり、その透明な色は空の透明へと還っていくだろう。青、それは風の色だ。つまり私の意識は風なのだ。私は風を探している。何故なら私が風だから。風の消えた街に風を探している。青を探している。透明を探している。色から解き放たれた純粋な私そのものを探している。私の鏡には風が映っている。青い世界そのものが映っている。さあ、旅に出よう。その青い世界へ。

遠い夏

 

 昼を過ぎて陽射しはまた更に強くなった。街全体に白い瘴気のような陽炎が立ち昇り、歪んだ視界の彼方に蜃気楼のような高層ビルが浮かぶ。太古の威光を取り戻した太陽は禍々しく空は悲劇的な青さに輝いている。絶滅した恐竜の最後の一匹が斃れたときもきっとこんな空だったのだろう。無数の呻き声や絶望の嘆願、それに夥しい赤い血を余すことなく飲み干してその肥沃さを増す無情な聖女の青い瞳。しかし血など一滴も辺りに見受けられなかった。代わりに数え切れない蝉たちの鳴き声が野太い滝のように空のなかへ落ちていく。彼らはいったい何処にいるのだろうか。見渡す限り樹木など一本も生えていないこのアスファルトの砂漠の何処に?

 半ば朦朧とした意識でそんなことを考えても無駄なことだった。もう既に何時間も私はその裸の額や全身にあの空から降り注いでくる容赦のない熱線を浴び続けていた。長い間、うすら寒い部屋の片隅で窓の外に痛切と待ち続けた夏、それはただの地獄だった。顔の半分を覆う白いマスクがその焦熱をまた更に煽る。唇と唇の間から漏れる熱く乾いた息はマスクの布と顔の間にこもり、布と鼻の隙間から僅かに漏れ出た息も二つの眼球の表面を焔のように炙り、そのたびに視界が一瞬だけ赤紫色に変わる。まるで猛毒の息を目に浴びているようだった。熱帯の密林の奥で有毒な瘴気を周囲へと巻き散らす植物。朽ち果てた小鳥や昆虫たちの屍体の横で赤色や黄色、けばけばしい原色の巨大な花を咲き乱し残忍に嗤う、そんな熱帯の邪悪な植物に自分がなった気がした。しかしそうして毒を巻き散らしているのは自分だけではなかった。目の先の白熱して眩しい石の道の上にはぞろぞろと私と同じようにマスクで顔を覆った人々が歩いていた。まるで巣穴を失った黒い蟻たちのように力なく俯いて歩く彼らの口からもきっとこの毒の息が漏れているのだろう。街全体を覆って見えるあの白い瘴気のような陽炎は本当に有毒な瘴気だったのだ。すると青かった空が刹那真っ赤な炎の色に変わった。まるで生命の存在しない死の星を目の前にしているような。空はすぐに元の色へと戻った。私は視線を下に、石の上で焼けるボロボロのスニーカーのへと移した。いや、そうではない。あれはただの陽炎だ。禍々しい太陽の熱光なのだ。いや、そうではない。あれは蝉たちの鳴き声だ。夥しい生命の爆発なのだ。

『全部、同じことだよ。夏、地獄そのものさ』突然、肩の隣で声がして私は振り返った。しかしそこには誰もいなかった。代わりに小さなが白鶺鴒(はくせきれい)が立っていた。高熱に熱せられた石畳の上でその小さな鳥は立ち尽くし、精気なくその長い尾を振っている。所々にほつれ乱れた羽毛。黒いくちばしは半ば開かれたままで彼もこの地獄の暑さに弱っていることが分かった。いや、そうではない。彼は私の吐く毒の息によって衰弱しているのだ。邪悪な植物の横で朽ち果てた小鳥の屍体。いや、違う。彼は喉が渇ききっているのだ。私は立ち上がって水を探した。水は歩道の向かい側にある公衆トイレの脇にあった。私は歩いていきその蛇口の前に立った。陽の光に煌めく銀色の蛇口は固形の金属というよりはどろどろに溶けた金属の液体のようで、その表面の異常な高温に顔をしかめながら栓をひねると本当の液体が音を立てて流れ始めた。水は冷たかった。熱に火照った両手が急速に冷えていく。まるで火の星だった地球に最初の雨が降り始めたようだ。最初の雨。最初の冷たさ。私はその冷たさを頭から浴びた。髪の表面から髪の付け根の頭皮へ、つむじから後頭部、耳の裏や後ろ首へと水は流れていく。地獄の夏はばらばらに砕けていった。瞼の裏の暗闇のなか、それは何百ものの割れた鏡となって、その一枚一枚に色々な夏の姿が映り込んで、それはまた野太い水の滝となって蛇口の下の暗い下水溝のなかへと落ちていった。

 水を浴びて冷たく醒めた意識にまたあの夏の街が映った。しかしそれはとても遠い夏だった。蜃気楼のビルも蝉の鳴き声もひどく遠かった。道を歩く人々は顕微鏡のなかの細胞のように小さかった。うすら寒い部屋の片隅で窓の外に夢見ていた夏がそこにはあった。私は地球に誕生した最初の生物のように空を見た。空は涙が出るほど眩しく青かった。太陽は祭りの開始を告げる銅鑼を喧しく打ち鳴らしている。透明な水を入れたペットボトルを片手に私は白鶺鴒のもとへと急いだ。

子供の認識と大人の認識

 認識者であるという事が生命の条件だ。どんなに微細な生物だとしても光であれ熱であれ絶対に何らかのものを認識している。何ものも認識していないのは物、石のような無機物であり生命とは言えない。或る一個の生命が抱える全ての認識が閉じられたときその生命は生命でなくなる。石のような無機物となる。それが死だ。

 我思う故に我在り。あらゆる生命は我思っている。認識している。しかし如何なる生命も我在りなどとは認識していない。精神を持った人間の大人以外にはである。人間も鏡像段階(鏡に映る自身を自分だと認識出来る段階)以前の子供は我在りなどとは当然認識していない。彼等も我思うだけである。言い換えるなら彼等は純然たる認識者で、どんなに小さな子供でも彼は生命そのもの、この宇宙そのものなのだと言えよう。だが、人間は鏡像段階を経て自身や自身の行為を認識する自我というものが誕生する。私はこれを精神と呼ぶ。この精神はそれまでのように直接現実とは繋がっていない。つまり精神は現実そのものを認識することが出来ない。精神は分厚い壁に包まれている。その壁こそ肉体であり、精神はその肉体の認識を通してしか現実を認識することが出来ない。つまり精神とは現実そのものに対する肉体の認識を認識する主体なのだ。ではその精神は肉体から送られてくる認識の信号をどうやって認識するのかというと、それは言葉を使用してであり概念に当て嵌めて認識するのである。裏返しに言うとつまり精神は言葉、概念の外側にあるものを認識することが出来ない。しかしその言葉や概念に出来ないものこそ鏡像段階以前のかつて彼が認識していた現実そのものなのである。

 さて、大人というものは兎角子供の認識を馬鹿にしがちである。しかし前述の通り、子供は精神を主体とする大人たちには決して認識することの出来ない現実そのものを認識しているのだ。精神の傲慢はそれを無視する。言葉や概念で現実そのものが認識出来ると錯覚してしまう。頭の中に観念の壁を分厚くし、それによって精神は増々現実そのものから遠ざかっていく。しかしその遠ざかっていく現実そのものこそ精神が喉から手が出るほど切実に認識したいと渇望している対象なのだ。

精神という幽霊

 人生は夢だと言う。そうなのだろう。しかし夢を自覚した瞬間に夢は醒める。人生は夢、この言葉の中には二重の認識がある。人生は夢だという認識、更にはその夢を見ているという認識。もう分かるだろう。彼は人生から目を覚ましてしまった。私は既に死んでいる。

 一体いつ私は死んだのだろうか。一つ思い浮かぶのは私の幼年時代の出来事で、私は頭に重大な傷を負った。愚かにも箱ブランコの下に潜り込んだ私は勢い良く揺り戻ってきたそのブランコの硬い鋼鉄の角に頭をぱっくりと割られた。幼児の小さな身体にとても収束出来ない莫大な苦痛=認識の熱と光りが私を焼く。赤く煮え滾るそのマグマのような羊膜の中で私は産声を上げた。おそらく熱と光の根源、聖なる太陽に対する私のノスタルジーはこのときの記憶からきているのだ。

 私は誕生した。しかし、青い空、静止した箱ブランコの下で私は生物としてではなく死物として目を覚ましたのだ。それを霊魂だとか精神だと言い表す人もいる。実際、その通りで、私は生物などではなく一個の精神なのだ。

 我思う、故に我あり。子供や動物は我思うだけだ。思っているその我を認識したとき、我ありと言い終わった瞬間、彼は子供から大人になる。精神が誕生する。しかし、我思うと我ありの間には決して戻る事の出来ない赤黒い河、生の世界と死の世界を分かつ境界線が流れている。我ありと言った人間はもう二度と我思う世界、生の世界へと戻る事が出来ない。子供たちはお化けを怖がるだろう。あの透明で足のない朦朧とした死の幽霊たちは生者である子供たちに映る私たちの姿なのだ。