生け贄の人魚

 

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 男は男らしく、女は女らしく。キリスト教以降の西洋の文明はそうして完全に人を精神と感性に人間と人魚に見る人と見られる人、二つの対極に分離させることによって石そのもののような強力で揺るぎのない精神、観念の世界、科学精神、合理的自我「私」を確立しその圧倒的な精神の力で世界を征服した。だからそんな彼らにとって男の中にある感性を人魚を女性性を自覚し自ら自身が美しい形であろうとする男の同性愛者はその精神の基盤を揺るがす悪でありまた女がその中に精神を人間を男性性を自覚し精神者であろうとすることもまた忌まわしいことだった。冷たい月の石で出来た白い巨塔の下にはあらゆる人間のその片側の抑圧と犠牲が埋められているのだ。我々はその血まみれの精神の莫大な遺産によってかつてなく物質的豊かに生活している。しかしながらそもそも西洋人たち彼らの信仰したキリスト教、そのイエスの姿の何処にも純化された精神、男らしさなどないのだ。つまり彼ら西洋人はイエスその人を信仰したのではなくあの長い髪の柔和な優しい何処までも受け身である受難の人、男の中にある女、その人魚を犠牲にする場、十字架こそを信仰したのだ。だからカタリ派は異端として殲滅され、ヒュパティアは牡蠣の殻でずたずたにされ、ジャンヌ・ダルクは魔女として火炙りとなり、オスカー・ワイルドは投獄され、ゴッホはまるで理解されず、シモーヌ・ヴェイユも理解されず横死しなければならなかった。

 異性間の恋愛の思想もこの精神(観念)者と感性(肉体)者、男と女の完全な分離分断によって形成される。男と女が一つに結び付くことによって互いにそれぞれ欠落した部分を補い合い一つの完全な形になる(結婚)。しかしその二者の分裂もそれに伴って発生する結合への欲求意志も人間の生物的自然的本来の性質ではなく大部分は人工的に創造偽造されたものなのだ。人間は男として生まれるのでもなく女として生まれるのでもなく人工的な社会に於いて男にされまた女にされるのである(しかしその男女の性の分離拡張の結果として最初から完全に女性性の欠落した男、男性性の欠落した女も中には存在する)。

 明治の文明開花とともにこの日本にもそんな西洋の精神が流れ込んできた。そのときその精神と共に精神と分離され、拡大強調された肉体、人魚のような女の姿もこの国へと流れ込んできたのだ。極度に人工的な精神者である谷崎潤一郎はその生け贄の人魚に恋をした。

 人工世界の行き着く果てにデカダンス、腐敗と退廃の香り芳しいその甘美な果実は実る。退屈な楽園に飽き果て膿んだ天使たちが白い雲と雲の青い裂け目に映し出す地獄の夢。重篤な倦怠に沈んだ瞳で彼ら精神者たちはその見つめる青い泉が深紅の色に染まる落陽その時を待っている。愚かな天使は堪えることが出来ずその裂け目から大地へと落下する。ほら、もうすぐ雪が降るよ。しかし天使は楽園に居るから天使なんだ。地上での彼らは堕天使、或いは魔王と呼ばれる。雪は狼に化身してその真っ白な毛を返り血に染める。そうでなくてはあっという間に黒い土へ溶けていくだけだ。だから天使よ、楽園に帰れ。その翼が溶けないうちにあの泉の前へと帰れ。この大地は君が思い描いたような君にとって愉しい所なんかではない。悲しいけど君の現実は楽園でも大地でもなく白い雲と雲の裂け目、あの泉の上にしかないんだ。

 

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 精神の血に対する嗜好。精神が精神である限り精神は血を求め続ける。あの黒いマントを羽織った吸血鬼と同じように絶えず新鮮な生き血を摂取していなければ精神の持ち主は干からびて息絶えてしまう。精神は「私」はその誕生時から悪(罪)を内包しているのだ。真っ赤に染められた人の歴史そののものが何よりもその十字架を濃厚に証言している。国枝史郎の「神州纐纈城」はそんな精神が背負う禍々しい血の呪縛、宿命を日本の戦国時代を舞台に描き出した伝奇小説である(あの三島由紀夫が傑作と激賞していたので読んだ。彼三島も血に取り憑かれた精神者の一人だろう)。

 幼少時に失踪した両親と叔父を探して魑魅魍魎跋扈する魔界のような富士の麓をさまよう侍の若者。彼をその異界へと導く深紅の布。それこそ生きた人間から絞り取った血を染めて出来上がる纐纈布であり、恐ろしくだが同時に見る者の心を深く魅了し高値で取り引きされるその禁忌の布を日夜大量に生産する城こそ、深い霧に包まれた水城、纐纈城だった。

 自らが暗黒の死そのものと化して人を殺害しその大量の血で紅い布を作らせ続ける仮面を被った纐纈城の主はまさに吸血鬼で悪で魂を喪失し精神に蝕まれた人間の実相そのものである。片や、その同じ富士の麓にはあらゆる殺生、血への衝動を固く戒めて慈愛をもって平和に生きていこうとする新興の宗教団体富士教団があり、その教祖(彼は邪悪なあの仮面の城主の弟なのだが)はイエス・キリストを彷彿とさせる聖人、魂の人そのものである。そんな邪悪な兄と聖なる弟は当然熾烈に争いを繰り広げることになる。そしてそれはこの作者国枝自身の葛藤だったのだろう。吸血鬼と十字架、悪と善、精神と魂、主人公はそのどちらでもなく、その対極の間を揺れ動くように出口の見えない富士の暗い樹海を彷徨う一人の若者なのだ。

 精神と人が言うとき男であれ女であれその精神の持ち主は人間(厳密に言えば大人)だろう。猫の精神とか蜻蛉の精神とか人間以外の生物に対して人はその言葉を使わない。魂という言葉なら彼らにも使う。そのことからも精神と魂が違うのだということが伺われる。実際、精神と魂は全然異なるものなのだろう。
 精神という言葉が纏っている冷たい月の光のような響き、魂という言葉から聞こえてくるめらめらと燃える炎の音、太陽のにおい。まるで対局にあるその二つ。精神は観念、人工に属し魂は肉体、自然に属するのだ。そして人は自らの魂を自覚したときその精神を獲得する。自らの肉体、自然を客観的に見つめる非肉体的、非自然的なまなざし。それこそあの月から降り注ぐ精神の光である。しかしそれは同時に凍り付いた太陽(生命)の光なのだ。客観を手に入れる代わりに主観を失う。無限であり無敵である観念の翼が生えた代償にその肉体、自然を失う。感情を失う。熱を失う。形を失う。自らの生を失う。だから精神はいつもその実存、血と肉、魂に飢えている。孤城に住む吸血鬼。満月に吠える狼男。或いは我の尾を我で噛む白い蛇。

 彼は神経症を挫折した芸術作品とみなし、神経症患者を挫折した芸術家とみなしていた。神経症は方向をあやまった想像力とエネルギーの発露である、と彼は書いていた。花や実のかわりにわたしは強迫観念と不安を結実したのだった。

      ーー原麗衣訳 「アナイス・ニンの日記」よりーー

 

 回路を探さなくては。私のエネルギーを私の外側へと放出する回路を。強迫観念も不安も憂鬱も、自分自身を苛み蝕む苦しめるあらゆる暗い負の情動は歌いたいという意志を持ちながら歌い方を知らない小鳥たちが翼を折る悲しい歌なんだ。かつては宗教や伝統がその歌い方を教えてくれた。しかしそれも今はない。だからその歌い方を自分で探し出し見つけ出さなくちゃならない(本、映画、人間、自然、あらゆるものはそのヒントを与えてくれる)。アナイスは日記という方法によって彼女の歌い方を発見し失われた本当の彼女の歌、翼をその手に取り戻したんだ。そしてその歌い方の模索という様式を喪失した現代人の自由の暗い海的状況はそのまま小説という芸術が置かれている状況に置き換えることが可能、全く同じなんだ。

 その青い花々、あるものは高くあるものは低く、幾層にも高低差をつけて群れ咲いているその青い花々は一輪一輪が真上から覗き込んだ視界の見えない底から湧き上がってくる青く小さな水の塊のようで、まるで私は海そのものが湧き上がってくるその亀裂の深淵を覗き込んでいるような感覚にひとり陥った。するとその妖しい水の塊たちは次第にくるくると螺旋を描き始め、そう、それは秘密の地下へと降りていく階段のように私をその不可能な裂け目へと誘うのだった。