考察
認識とは感じることである。光、音、匂い、味、温度、弾力や硬度。認識とは現実にあるものを感じることである。何処から認識するのだろう?それは現実にあるものの外側からである。認識者は現実の外側に存在しているから内側の現実を認識することが出来る。…
神の実在を証明するために焼き殺された魔女たち。荘厳な絶対の光の塔の裏に差すどす黒い影。思考するほどにはっきりとしてくる非思考の世界。顔のない人魚の顔。 認識、言葉の世界の住人である私が言葉によって認識を深めれば深めるほど私の認識は本当の現実…
本当の海は太陽の熱にも月の光にも汚されていない純粋な海は焼けるほど冷たくそして見えない。氷はその本当の海に限りなく近い。見えなければ完璧だろう。その透明な氷、真空が片時も離れず私の周りを覆っている。初めて目にしたものを親だと思い込む家鴨の…
人魚は別に男でも良いのだ。かつてはそうだっだろう。男も女もみんな人魚だった。平安の貴族たちは男でも化粧していたし彼らは恋の熱情を歌にしていた。源氏物語の光源氏のことは言うまでもない。或いはアマゾンやアフリカで今でもいにしえの生活を守り続け…
ヴィンセントと書かれた空色のバケツのような鉢植え。たくさんの向日葵が挿さっている。まるでそのヴィンセントという鉢植えの中に金色の朝日が溢れ始めてそこから零れ落ちた光の塊一つ一つが大輪の向日葵の花になっているような。しかしこの向日葵たちはど…
男は男らしく、女は女らしく。キリスト教以降の西洋の文明はそうして完全に人を精神と感性に人間と人魚に見る人と見られる人、二つの対極に分離させることによって石そのもののような強力で揺るぎのない精神、観念の世界、科学精神、合理的自我「私」を確立…
人工世界の行き着く果てにデカダンス、腐敗と退廃の香り芳しいその甘美な果実は実る。退屈な楽園に飽き果て膿んだ天使たちが白い雲と雲の青い裂け目に映し出す地獄の夢。重篤な倦怠に沈んだ瞳で彼ら精神者たちはその見つめる青い泉が深紅の色に染まる落陽そ…
精神の血に対する嗜好。精神が精神である限り精神は血を求め続ける。あの黒いマントを羽織った吸血鬼と同じように絶えず新鮮な生き血を摂取していなければ精神の持ち主は干からびて息絶えてしまう。精神は「私」はその誕生時から悪(罪)を内包しているのだ…
精神と人が言うとき男であれ女であれその精神の持ち主は人間(厳密に言えば大人)だろう。猫の精神とか蜻蛉の精神とか人間以外の生物に対して人はその言葉を使わない。魂という言葉なら彼らにも使う。そのことからも精神と魂が違うのだということが伺われる…
彼は神経症を挫折した芸術作品とみなし、神経症患者を挫折した芸術家とみなしていた。神経症は方向をあやまった想像力とエネルギーの発露である、と彼は書いていた。花や実のかわりにわたしは強迫観念と不安を結実したのだった。 ーー原麗衣訳 「アナイス・…
その青い花々、あるものは高くあるものは低く、幾層にも高低差をつけて群れ咲いているその青い花々は一輪一輪が真上から覗き込んだ視界の見えない底から湧き上がってくる青く小さな水の塊のようで、まるで私は海そのものが湧き上がってくるその亀裂の深淵を…
ゴッホが弟テオにその発見を語った真の宗教「自らが花のように生きた日本人」言い換えるならそれは「私」自らが美しい形、花や人魚(艶やかな着物は花と人と魚の融合を思わせる)になろうという思想を生きた人々である。それはまた同時にゴッホ、彼が篤く信…
若さとは形への意志、その強さであって言い換えるなら「私」が何者でもない(形がない)ことの深く痛切な自覚である。だから人はその形を手に入れたと「私」が何者かになったと自覚ないし誤解したときからその若さを失う。要するに老い始める。小林秀雄が老…
三島由紀夫の「仮面の告白」には強烈なインパクトで記憶に残る印象的な場面が少なくはないが、なかでも今特に思い出すのは主人公が子供の頃、クレオパトラに扮装し家族の者を絶句させるところである。極度に人工的な人間、形のない幽霊のような、つまり観念…
今年が終わる 来年はもっと遠くへ もっと酷く寒いところ オフィーリアの流れ着いた 真っ黒な海に臨む岬へ
人魚は言葉と言葉の間の海に棲んでいる。彼がシュルレアリストならその言葉の形を壊して「私」の意識を眠らせて彼女の尾鰭の先を掴もうとするだろう。しかし谷崎はその方法を取らなかった。あくまでも彼は伝統的な手法を固守し「私」の意識を保持したままそ…
海は恐ろしい。たとえその深奥の秘密の中へ潜らなくてもたたずっと見詰めているというだけで混沌と無限に形を変えていくその波は見る者、彼の「私」をその深淵の青いはらわたの中へと丸ごと飲み込んでしまう。絶えず「海」と叫んでいなくてはいられない不安…
神秘の海はまた同時に死の海である。人魚と出会うには酸素ボンベ無しの素潜り、裸でその冷たい海に潜らなくてはならない。生半可な体力では人魚に会うどころか途中で力尽き鮫や蛸の餌食、最終的に藻の絡まる海底の骸骨となるだけである。数えることの出来な…
幼い頃私は怪獣が好きな子供でバルタン星人やレッドキング彼らがウルトラマンに撃退される度に悲しい思いをしていた子供だった。その怪獣崇拝思想は今でも色濃くと残っていて私はこの社会世界に於いて支配的でノーマルな形の人や物よりもそのいわゆる普通の…
エロス、生への意志は生きている者誰もが持っている。だから人が敢えてそれをエロスと言葉にして言うときそれはエロスの過剰なのだ。生命、あらゆる生命は燃えいる。その炎を殊更炎と言うときそれは炎の過剰なのだ。そしてその過剰は反エロス、タナトス、死…
阿部薫のサックスにも鈴木いづみの存在にも両方ともに言えることはそれが決してBGMやエキストラ、背景にはならないということだ。両方とも完全に主人公なのである。死の氷に包まれた極北ではそのようにして過剰に存在していなければ(エロスに溢れていなけれ…
凍らせたい(形を作りたい)男と氷になりたい(形になりたい)女。稲葉真弓は「エンドレス・ワルツ」でその二人、薫といづみに分裂したエロス(形、物への意志を飲み込んだ生へ)の意志を小説という形で再び結びつけ凍らせた(言葉にした)。印象的で且つ象…
アンナ・カヴァンは「氷」であらゆる生命の炎を凍らせて物と化してしまう氷の脅威を描こうとしたがその恐るべき氷の発生源のような男がいる。顔を歪めて背中を大きく仰け反り彼が吹き鳴らす破壊そのものの音はまさに氷の息吹で触れるものすべてから熱を奪い…
自然、あらゆる生物は一見自由奔放に見えるが実は厳粛な絶対の戒律、その種の形を遵守している。薔薇が薔薇の、白鳥が白鳥の形を逸脱することは決してない。彼らの抱えるタナトス、物への意志はあらかじめ完了してしまっている。だから彼らはそのような死へ…
襲来してくる物(死)の意志と「私」の戦いということを考えるとき、私は少し以前に読んだアンナ・カヴァンの小説「氷」を思い出さずにはいられない。世界の何処へ逃げても追い掛けてきて冷酷に容赦なく人々を凍らせてしまう「氷」。主人公の「私」はその絶…
鏡に映るオブジェ、物としての肉体をベルメールの人形たちは思い出させてくれる。それは希臘の壊れた彫刻も同じである。もはや何の意味も持たない語ることが不可能な物そのもの。しかしベルメールの人形からは希臘の壊れた彫刻にはない仄か暗いエロティック…
戯れにひげ剃り用の白いムースをずっと無くなるまで出し続ける。ぷしゅぷしゅと時折掠れたガスの抜ける音を立てながらマシュマロ状の塊が既に積み重なり融合して異様な形を形成しているその集合体のもとへと静かに垂れ落ちる。蒼い蛍光灯の光の下、幾つもの…
シュルレアリスム(超現実主義)と人形というと私にはドイツの人形作家ハンス・ベルメールの人形が忽ちに思い出される。しかし人の形を模して造られた物を人形と呼称するならばベルメールの人形を単純に人形と言い表すことには少なからず違和感がある。何故…
頭部や両腕の欠落した胴体のみの希臘彫刻。悠久の時の流れによって無惨にも破壊されてしまったそんな彫刻作品の方がほとんど完全に当時の形のまま現存している彫刻作品よりも真に迫る力をもって目に焼き付いてくるのは私だけだろうか。 破壊された彫刻作品と…
生物の中にある物への意志。タナトスと呼んでもいいだろう。タナトスが人間特有のものだと思われるのは人間がそのタナトスを認識するからであり他の如何なる生物にもタナトスは存在している。タナトスを持たずエロスしか持たないのなら、つまり物への死への…