オブジェ化した私

 マゾヒストは当然マゾヒストを自分の内側に飼っているが同時にサディストをも内包している。彼女はその身を彼に鞭打たせるが、その事を選択したのは彼女自身であり、故に彼女は彼に鞭打たれる前に彼女自身を彼女自身で鞭打っているのだ。彼女を鞭打つ彼女はサディストである。ただそのサディズムの対象が自分の外側へと向いて行かないが為に外から見て彼女はマゾヒストにしか見えない。
 この事は当然マゾッホにも当て嵌まる。事実、彼は彼の小説に於いて奴隷であるゼヴェリーンを演じているのと同時に残酷な女主人ワンダも演じているのだ。ゼヴェリーンも彼自身であるならばしワンダも彼自身なのである。
 マゾヒズムとは言い換えるならば罰せられたいという願望である。しかし罰せられたいと願う者に対して罰が訪れる事は決して無い。彼が殺人を含むどんなに悪逆非道な罪を犯し、それに対してその死を含む如何程過酷な刑罰を受けたとしても彼は罰を受けた事にならない。なぜなら彼は罰せられたいのだから。永遠に罰せらない事、それこそが彼の受ける事の出来る唯一の罰なのだ。
 ゼヴェリーンはワンダに裏切られる事を望み、実際その通りに裏切られ捨てられる。ワンダは彼を裏切る事で彼を裏切らなかったのだ。結局、彼の求める本当の裏切りは手に入らない。裏切りを待ち望む事で予め自分の内側で裏切られてしまっている彼に裏切りは永遠にやって来ないのだ。裏切りがその門を叩くのはただ信じる人に対してだけである。だから全てはゼヴェリーン彼の想定内の内に進み、彼は観念の衣装の外側の現実に振れる事が出来ず、つまりは生きていると実感する事が出来ない。そんなゼヴェリーンの絶望はマゾッホの絶望そのものである。
 どのように足掻いたとしても現実と自分の間に挟み込まれているこの分厚い衣装は脱げないらしい。そのような衣装を纏った我々人間よりも殆ど衣装を纏っていない足元を這う芋虫や壁に貼り付いたゴキブリたちの方が比較出来ない程現実について深く認識しているのだ。何という屈辱。しかしそれが現実である。
 そうして自分自身が衣装を纏っている事に気が付いてしまった人間(彼は一体何の果実を齧ってしまったのか)に残された道は一つしかない。それはつまり、衣装を絶対に剥がす事が出来ないのならその衣装の内側の自己を完全に滅却して衣装を自己と化してしまう事である。彼は彼自身を殺し、彼を一個の観念、一個のオブジェに同化させるのだ。
 私の住む街、その駅前の広場には一体の彫像が立っている。それは黒い大理石で造られた髪の短い裸の女性の彫像で、二つの細い脚を前に少し重ね合わせるポーズをして可憐に立っている彼女は駅を背中にいつも私の住む街を眺めている。雨の降った後などは陽の光を浴びて肩や腰そのなだらかな黒い肌の表面が艶めかしい光を纏い、それはまるで実際に呼吸をし生きているようで、そんな美しい彼女の前を通り過ぎるとき、私は彼女の瞳にじっと見詰められているような気がして、胸が不思議と高鳴り、同時に恥ずかしくていつも顔を伏せて歩いていた。
 これは私の妄想や妄念の類だろうか。いや、そうではない。全く衣装を纏わず裸で、しかし衣装そのものの裸で一人寒々しく宇宙の完全な孤独と孤立の内に立つ彼女、その黒く虚ろな虚無そのものである瞳の中に私の姿は確かと映り込んでいたはずだ。それこそ全く衣装を纏わない裸の私である。生命の花火そのものである美しい私。
 彼女だけが本当の現実の私を認識出来る。彼女だけがこの街の本当の姿を眺めている。生命と最も遠く離れた者だけが完全に生命を認識出来、現実と最も遠く離れた者だけが完全に現実を認識出来るのだ。そしてそんな黒い石の女の視線は同時にこの女を造り上げる事で死んだ作者自身の視線なのである。彼は黒い石の女という永遠の観念に同化したのだ。
 一つの純粋な観念と同化する為には現実に於ける自分自身のありとあらゆる夾雑物欲望を捨て去り、つまりは自身の生を否定しなければならない。それはストイックな修道僧の道で、純粋なキリスト教の精神である。その潔癖な継承であるトルストイ主義にマゾッホが走っていった事は必然の結果なのである。