中村光夫の文學論と三島由紀夫

 芸術とは教育の敵であり、芸術家とは社会の敵である。私は幼い頃から私はその本質を無意識的に朦朧と感じ取ってはいた。しかしそれを明確な言葉として意識するようになったのは最近の事であって、中村光夫の文學論という本を読んでからの事である。
 中村光夫という今では殆ど忘れられてしまった批評家(本屋に行っても彼の著作を見付けるのはなかなか難しい)が私の意識の片隅に住み始めた経緯、それは私が日頃何かとあれば紐解いている三島由紀夫の日記の中に彼が幾度となく登場するからであった。とはいえ三島の日記の中で批評家中村光夫の仕事について語られている個所は殆ど無く、日記に綴られているものは大抵何月某日中村夫人のお見舞いに行ったとかそういう私生活上の三島と中村の交流についてであって、それ程中村光夫という人が重要度を持って私の記憶に刻まれていたわけではない。三島の彼に対する風貌描写を踏襲して恰幅の良い批評家のおじさんのイメージにされた中村光夫は私の意識の片隅に小さくひっそりと息をしているのに過ぎなかった。
 そんな中村光夫の著作文學論を私は古書店で見付けて勿論手に入れた。ようやくあの恰幅の良いおじさんの本が読める。家に帰った私は早速階段の踊り場で煙草を片手にその本を読み始めた。しかし題名の文學の文字を見ても解る通り、戦前の出版物であって最初から最後まで旧漢字で書かれていている。旧漢字に対する知識など皆無である私は当然これを読み進めるに難儀する事必然かに思われたが意外とすらすら読める。それどころかぐいぐいと読める。旧漢字という障害をものともしない程中村の文章は明晰ですっきりと分かりやすかった。かといって冷たく機械的な論文のような文章ではない。一文一文から或いはその行間から中村の文學というものに対する真摯で誠実な情熱がひしひしと胸に伝わって来る。しかしその大部分は私小説を始めとした日本近代文學への批判であった。文學に対する愛深き故の鞭であった。では一体彼は近代日本文學の何を批判したのか。
 その前提としてまず我が国日本の明治以降の急激な近代化という現象がある。言うまでもなく浦賀沖への黒船の到来に始まる欧米の出現とその脅威は我が国に重大な衝撃を齎し、我が国は迅速な近代化の必要に迫られていた。近代化、言い換えればそれは文明開化であり我が国の西洋化である。西洋化する為には西洋から学ばなければならない。我が国は西洋に多数の留学生を派遣し、また多数の西洋人をこの地に招き、そうする事によって西洋の政治の技術、科学の技術、法律の技術、ありとあらゆる西洋文明の技術を獲得しようと努めた。芸術の分野もその例外では無かった。音楽、美術、そして文學の技術を西洋から学び取ろうとした。文學の技術、それは小説の技術であった。今日誰もが思い浮かべるような小説のイメージ、そんなものは明治以前には無かったのである。それは明治大正昭和と数知れぬ小説家文学者たちが西洋の小説技術を苦心刻苦の末我が国の文學に摂取吸収して造り上げた遺産である。現代の作家の大概はそんな先人たちの遺産を使って遊んでいるだけの道楽息子である。それはさておき、我が国の文學者たちは西洋の小説の技術を驚くべき速さで吸収し我がものとしていった。ジェットコースターのような速さで我が国が近代化し西洋列強の仲間入りをしたのと同じように日本文学も近代化した。中村光夫が問題として指摘するのはそんな日本文学の急速な近代化から零れ落ちていったものについてである。
 近代の文学者たちは西洋の作家たちから何を学んで何を学ばなかったのか。先に述べたように小説の技術について(その大部分を占めるのはリアリズムの手法である)我が国の文学者たちは申し分なく体得した。しかし学んだのはその表面的な技術だけであった。西洋の作家たちを貫く根本精神、つまりは小説の原理については殆ど学ばれず、或いは無視されたのだと中村は言う。しかし考えてみればそれも当然の事だ。もし仮に逐一立ち止まって小説とは何か?作家精神とは何かなどど頭を悩ましていたらこのような文学の急速な近代化は成し得なかった筈で、我が国が成し得た文学の急速な近代化は中村が言った事を逆説的に照明している。では一体西洋の作家たちの根本精神とは何であろうか。中村はルソー、バルザック、フローベルなど西欧を代表する作家たちの例を引き合いに出してその作家精神というものを説明する。それは社会と戦う精神である。その社会を構成し大衆が頑なに信じているありとあらゆる既成概念に対して否と叫ぶ精神である。つまり作家とは社会の敵なのだ。彼はペンを剣のように持って強大な社会に対して戦いを挑む。絶望的な戦いである。彼はついに破れ去り悲劇的な最期を迎えるだろう。しかしそれを十分に理解していながらも戦わずにはいられない。ペンを持たずにはいられない。彼が彼自身である為に。それが作家精神である。
 一つの小説というものを考える。その小説を面白くするのに一番必要な要素とは何であろうか。それは主人公の敵の存在である。敵を障害と言い換えても良い。全く敵も障害も存在しない小説ほど退屈なものはないだろう。たとえ主人公の外側に敵が居なくても主人公の内側に敵は必要である。葛藤が敵の役割をする。何にせよ小説の中にドラマというものが生まれる為には敵が必要なのだ。それは社会というものに於いても同じである。そのその社会の価値観をより豊かにし、結果的にその社会の完全性を高める存在、それはその社会に於ける敵なのだ。作家とは自覚的に或いは無自覚的にその社会の敵の役を引き受ける人間の事なのだ。言ってしまえば社会の生贄なのである。
 しかしそんな作家というものの本質を我が国の文學者たちは学び取らなかったと中村は言う。故に彼等は社会に対して迎合した作品を書くか、或いは社会から完全に逃避した作品をしか書き残さなかった。この社会というものと敢然と戦う悲壮なる決意を持ってペンを握った作家はついに現れなかったと。
 中村がこの本で語っているのは文學に於けるそんな作家精神についてのみだが、私はその対社会の精神はそのまま芸術家の精神と言って良いと考える。芸術家は社会と戦わねばならない。もっと言えば彼は戦わざる負えないのである。なぜなら彼は生まれながらにしてその社会の敵だからである。どこまでいっても社会の枠の中からはみ出してしまう人間、それが芸術家であり作家である。彼に残された選択肢は二つしかない。社会に殺されるか。社会そのものをペンによって破壊して新しくするか。その二択である。言い換えるならそれは革命精神である。
 すると一つの光景が白く眩しく私の脳裏に浮かぶ。それは1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地のバルコニーの上に立つ三島由紀夫の姿である。雨のような野次の中、固く拳を振り上げ、あらん限りの声を振り絞って自衛隊員たちに対して決起を訴える彼の姿。しかし、自衛隊員たちはまるで石像のように微動だにしない。これ程に作家と社会というものの絶望的で感動的な敵対関係を象徴している構図は無いだろう。彼はあのときもう既に法律を破っていた。法治国家と政府そのものの敵になっていた。生命の尊厳、ヒューマニズム、経済至上主義、アメリカ由来の物質主義、美しさを忘れ去り俗化した戦後社会すべての敵になった。いや、彼は最初から敵だった。彼は作家だったのだから。
 しかし三島の革命は失敗に終わった。彼は自殺したのではない。彼は社会に殺されたのだ。この社会の不完全性を彼は彼の生命によって補完されたのだ。彼はやはり本当の作家だったのだ。本当の芸術家だったのだ。
 中村光夫は当時まだ健在だった。おそらくはテレビであの光景を見ていた事だろう。彼はどう思っただろうか?自らが夢にまで描いた本物の作家がその作家精神の当然の帰結として滅びていく光景を見て。中村光夫は何を思っただろうか。