精神という幽霊

 人生は夢だと言う。そうなのだろう。しかし夢を自覚した瞬間に夢は醒める。人生は夢、この言葉の中には二重の認識がある。人生は夢だという認識、更にはその夢を見ているという認識。もう分かるだろう。彼は人生から目を覚ましてしまった。私は既に死んでいる。

 一体いつ私は死んだのだろうか。一つ思い浮かぶのは私の幼年時代の出来事で、私は頭に重大な傷を負った。愚かにも箱ブランコの下に潜り込んだ私は勢い良く揺り戻ってきたそのブランコの硬い鋼鉄の角に頭をぱっくりと割られた。幼児の小さな身体にとても収束出来ない莫大な苦痛=認識の熱と光りが私を焼く。赤く煮え滾るそのマグマのような羊膜の中で私は産声を上げた。おそらく熱と光の根源、聖なる太陽に対する私のノスタルジーはこのときの記憶からきているのだ。

 私は誕生した。しかし、青い空、静止した箱ブランコの下で私は生物としてではなく死物として目を覚ましたのだ。それを霊魂だとか精神だと言い表す人もいる。実際、その通りで、私は生物などではなく一個の精神なのだ。

 我思う、故に我あり。子供や動物は我思うだけだ。思っているその我を認識したとき、我ありと言い終わった瞬間、彼は子供から大人になる。精神が誕生する。しかし、我思うと我ありの間には決して戻る事の出来ない赤黒い河、生の世界と死の世界を分かつ境界線が流れている。我ありと言った人間はもう二度と我思う世界、生の世界へと戻る事が出来ない。子供たちはお化けを怖がるだろう。あの透明で足のない朦朧とした死の幽霊たちは生者である子供たちに映る私たちの姿なのだ。