子供の認識と大人の認識

 認識者であるという事が生命の条件だ。どんなに微細な生物だとしても光であれ熱であれ絶対に何らかのものを認識している。何ものも認識していないのは物、石のような無機物であり生命とは言えない。或る一個の生命が抱える全ての認識が閉じられたときその生命は生命でなくなる。石のような無機物となる。それが死だ。

 我思う故に我在り。あらゆる生命は我思っている。認識している。しかし如何なる生命も我在りなどとは認識していない。精神を持った人間の大人以外にはである。人間も鏡像段階(鏡に映る自身を自分だと認識出来る段階)以前の子供は我在りなどとは当然認識していない。彼等も我思うだけである。言い換えるなら彼等は純然たる認識者で、どんなに小さな子供でも彼は生命そのもの、この宇宙そのものなのだと言えよう。だが、人間は鏡像段階を経て自身や自身の行為を認識する自我というものが誕生する。私はこれを精神と呼ぶ。この精神はそれまでのように直接現実とは繋がっていない。つまり精神は現実そのものを認識することが出来ない。精神は分厚い壁に包まれている。その壁こそ肉体であり、精神はその肉体の認識を通してしか現実を認識することが出来ない。つまり精神とは現実そのものに対する肉体の認識を認識する主体なのだ。ではその精神は肉体から送られてくる認識の信号をどうやって認識するのかというと、それは言葉を使用してであり概念に当て嵌めて認識するのである。裏返しに言うとつまり精神は言葉、概念の外側にあるものを認識することが出来ない。しかしその言葉や概念に出来ないものこそ鏡像段階以前のかつて彼が認識していた現実そのものなのである。

 さて、大人というものは兎角子供の認識を馬鹿にしがちである。しかし前述の通り、子供は精神を主体とする大人たちには決して認識することの出来ない現実そのものを認識しているのだ。精神の傲慢はそれを無視する。言葉や概念で現実そのものが認識出来ると錯覚してしまう。頭の中に観念の壁を分厚くし、それによって精神は増々現実そのものから遠ざかっていく。しかしその遠ざかっていく現実そのものこそ精神が喉から手が出るほど切実に認識したいと渇望している対象なのだ。