日記08/24『信じるもの』

「結局、君は何を信じているの?」幾度となく尋ねられた問い。私はその度に答えに窮する。そう問われるのと同時に私も頭の中で問い掛けている。「私は何を信じているのか?」でも答えは出ない。いや出ているのだ、明確に。私は何も信じていない。絶対の神も絶対の法も人間の理性や言葉も、五感すらも‥何もかもだ。ならば何故自身に問い掛ける?誰にも聞こえない心の声で。私は普段胡麻化している。私は見ないようにしている。あの恐ろしい完全な虚無、相対性の魔女の暗い口腔、荒れ狂う夜の黒い海を。ひとたびその窓が開くと私の自我は崩壊する。ゲシュタルトは崩壊する。全ての言葉、概念、意味は熱せられたバターのように溶けて、そのなかで「私」という概念は消滅していき、極限の不安のなかで私は発狂寸前になる。子供の頃から何十回と。一度全身不随になって救急車に運ばれたこともある。私は私の肉体すらも信じることが出来ない。他者なんてもちろん私は信じていない。何もかも信じることが出来ない。全ての意味や概念は人間が虚無への不安から勝手に作り出した想像の産物だ。或いはその虚無を際立たせるために勝手につくりだした想像の産物だ。全ては想像の産物。私も彼もその想像のゲームのなかで生きている。しかしひとたびスイッチが切られればゲームの外側の現実、虚無が濁流となって流れ込んでくる。そこには「私」も「彼」も居ない、存在しないのだ。ひとたびゲームの外側へと行ってその外側の現実を見てしまった人間はたとえそのゲームのなかへ戻ったとしてももうそれを他の人のように現実だと信じることが出来ないんだ。だから私は何も信じることが出来ない。ただ知っていることはある。「私」も「彼」もこのゲームの、想像のなかに閉じ込められている。つまり存在はしているがこの現実にには実在していない。「私」も「彼」も生きてはいないんだ。

 でも、最近気が付いたんだ。自分が本当は生きていないということ、その絶対の非実存、想像の洞窟の中に存在している状態をあらゆる生き物は知っている。だから生きようとする。生きていないから生きようとする。この暗い洞窟のなかから見えるあの青い空の出口へと飛び出していく。ひまわりは咲く。蝉たちは歌う。それこそが唯一の絶対だ。信じているのではない。私はその決して抗えぬ宿命を知っている。私も生きているもののひとつだから。