夜の鳥の卵

ああ、神様、ああ、私の神様。
どうかどうか私に翼をください
何も見えない
何も聞こえない
何も感じられない
この永遠の井戸の底から
私を解き放ってくれる二対の羽根。
黒く輝くその翼を広げて
空に輝くあなたの瞳の中へと
私は今すぐにでも飛んでいきたいのです。

 


君は見た事があるかい?
庭の木の葉の上に
もっと向こうの電線の下に
枯れた紫陽花の花の上に
ぎっしりと産み付けられている
巨大な夜の鳥の無精卵。
朝の光に照らされて
てらてらと無邪気な期待に震えながら
窓辺に顎を乗せた少年の瞳で
もっと熱い太陽の精液を
その身に待ち受けている罪の卵たちを。



いやらしい運命の息吹が
次々と彼らを
固い地面の上に叩き落として
その度に彼らは
叫び声もなく砕け散り
無明の地獄の底へと吸い込まれていく。
線香の煙と共に空へと昇る鎮魂の祈祷も
白い花が優しく添えられた墓石もない。
何故なら彼らは生まれる事無く
死んでいったのだから。
知られざる死産の子たち。
真っ白な仮面を付けた人々の黒い靴が
僅かに残った彼らの遺骸を
滅茶苦茶に踏み散らし
虚ろなまるい瞳の鳩たちが
泥に塗れた彼らの髄液を黙々と啜る。



さて、幸運にも
太陽が玉座に座るその時刻まで
生き延びる事が出来た数少ない卵たち。
干乾びた棕櫚の葉の上で
蒼褪めた紫陽花の上で
浮浪者のビニールシートの上で
太陽の熱い精液を浴び続けた彼ら、
ほら、見てごらん。
世界そのものを映し出す
透明な丸い球体の中央に
段々と真っ黒な塊が見え始める。
水の中に垂らした墨汁のように
ぐるぐると ぐるぐると
奈落の色の渦を巻きながら
透き通る卵白の中に
どす黒い卵黄が浮かびあがる。
忘れ去れた塔の窓辺で雲を見上げる老女の瞳
薄暗い天井の染みを見詰める怯えた子供の瞳
最後の一枚をテーブルの上に投げた男の瞳
白い足の指を開いて痙攣する若い女の瞳
階段の十四段目を見上げる死刑囚の瞳
そう、それは瞳
この世にありながら
この世ならぬもの
夜の闇そのもののを映し出す瞳
透明な卵白に赤い亀裂を幾つも浮かべて
ふるふるとその罪が震えだす
どくどくとその悪が脈を打つ
今にも目覚めようとしている夜の鳥。
しかし、彼らの艱難はまだ続く。
白装束に身を固めた集団が
ガスバーナーを片手に
そんな夜の鳥の卵を捜索している。
見つけ次第完全焼却、燃やされる。
ひどいときには
ひとつの森全部が焼き尽くされる。
その黒い刻印が現れた人間は
女も子供も生きたまま焼き殺される。
みんな何よりもその黒い瞳
生れてはいけない悪魔の新星、
その誕生を恐れている。
しかし、それも杞憂だ。
彼らは恐れ過ぎている。
摘み取らなくても燃やさなくても
夜の鳥、彼らはその産声をあげた瞬間
太陽に焼き尽くされて消えていく。
当然だ、彼らは夜の鳥、
昼間の光の中では生きていけない。
昼から夜へと
現実から夢へと
架けられたあの白く輝く橋を
渡り切る事などとても出来ない。
ああ、なんて哀れな悪魔の子よ。
君はいったい何のために生まれてきたのか。
滅びるために生まれてきたというのか。
しかし、今夜も街や村で或いは家の中で
彼らが羽ばたく事無く死んだ事を祝って
人々はお祭り騒ぎ、祝福の宴を開いている。
ひとり灯りもなく窓もない
暗闇の部屋に佇む目隠しの少女を除いて。



五十年に一度
或いは百年に一度
鼠たちが北へ向かって大移動し
猫たちが人間の言葉を喋り始め
何人もの子供たちが行方不明になり
女たちが暖炉の前で膝を抱えて祈り続ける日
黒い桜の花びらが満開に咲き乱れ
鴉と蝙蝠が不気味に笑って飛び回るなか
悪魔や道化の仮面を被った
大勢の男たちが街を彷徨う日
昼なのに夜のように真っ暗な空
煌々と燃え上がるのは黒い太陽。
そのときだ、夜の鳥たちが羽ばたくのは。
全てに対する復讐のように
何千、何万と一斉にあがる産声が
轟々と地響きのように大地を揺るがし
空に舞った彼らはまるで黒い噴水のように
彼らの故郷、あのあらゆる罪の源、
黒い太陽のもとへと羽ばたいていく。
すると少女は
ひとり灯りもなく窓もない
暗闇の部屋に佇む目隠しの少女は
目隠しを外し、家の外へと一歩踏み出す。
彼女が初めて見る現実の世界。
何も見えない真っ暗な夜よりも暗い昼のなかへと。