日記09/16『思考の断片』

 太陽は眠らない。片時も。一瞬も。けっして死なないこと、それが彼に与えられた罰。永遠に続く拷問。彼は何の罪を犯した?人間に動物に生命にその炎、意識、言葉を教えた罪。美しい沈黙に世界を創造した罪。

 
 エロティシズムは私と融合した他者、それを見届ける第三者、この三者によって完成する。切腹に於いては腹を切る私の精神と腹を切られる私の肉体、更にその完全に統一された滅びていく私を介錯=解釈する人間によって。小説を書くということは切腹である。読者によってそのエロティシズムは完成する。
 エロティシズムとは人間の意識を覆う概念、認識の限界の窓の外側へと到達しようという試みである。聖なる太陽への接近。太陽へと足を踏み入れた者は「私」を喪失する。滅びる。だから彼は太陽、窓の外側へ行ったことを彼自身では認識出来ない。だから窓の外へと行って滅びゆく彼の姿を見る第三者が必要になってくる。エロティシズムは個人ではなく集団、人間の共同体によって成就する。
 
 私はあらかじめ私に失われた生の「過程」に憧れている。だから哲学や宗教ではなく文学、小説が好きなのだ。「真理」、意味や結果を重視探究する前者に対し小説はその「過程」、道のりの楽しさや美しさを重視探究する芸術だから。そしてその私に失われた生の「過程」はそっくりそのまま私の肉体、テオーリアの存在意識に符号する。だから私にとってテオーリアを描き、テオーリアの意識になることこそ小説を書くということであり、同時に私に失われた生の「過程」を取り戻す、私が生きるということなのだ。しかしまた同時にそれは私の自殺である。
 
 しかし私は私の他者であるテオーリアになれるだろうか。宿命論を乗り越えることが出来るだろうか。私は生きることが出来るのだろうか。私は死ぬことが出来るのだろうか。