他者というもの

 友情を、というよりも、友情についての夢想を、きっぱりはねのけるすべを学ぼう。友情を望むのは、非常なあやまりである。友情は、芸術や人生がもたらしてくれるよろこびと同じ、価なしに与えられるよろこびでなくてはならない。そういう友情を受けるねうちのある者となるために、友情を拒否しなくてはならない。友情は、恩寵の次元に属するものなのだ(「神よ、わたしから遠く離れてください‥‥‥」)。

                   ーーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」より

 

 私でないもの、それが他者である。そんな簡単な原則を私は人は忘れがちである。私でないものとは私の意思が介在しない、また介入することも出来ないもののことだ。私の意思で、私の望み通りに動作しまた形を変化させるもの、それは私の一部であり、つまりそれは私なのであって他者ではない。他者とは外に出たとき私の頭上を覆っている空と同じものなのだ。私がどれほど晴れるように祈っても空には通じない。空は晴れたいときに晴れ、雨を降らしたいときに雨を降らせる。私はおろか人類全体の意思すらその現象へ介入することは出来ない。だからこそ空は私にとっても人類にとっても他者なのである。そんなふうにして空というものが私にとって他者であることを私は知っている。だから私が他者である空に何かを期待することは初めからそもそもない。全く期待していないからたとえ急に雨が降っても空に対して怒ることはない。それ故に私は空を憎むこともない。それどころか私は空を愛している。まるで何も期待せずただ他者を愛している。しかし私は人は空という他者のことは見返りを求めずそのようにして愛することが出来るのにも関わらず人間の他者に対しては同じような態度を持つことがなかなかにして出来ない。他者が私の期待通りの態度や行動を以って私に接してくれないことを悲しんだりまた怒ったりもする。悲憤、人間が抱え込んでいるその負の感情の大抵は彼と同じ人間の他者が彼に対して行う裏切りを原因としているのだ。しかし待ってほしい。他者が私を裏切るのは当然のことなのだ。空がにわか雨を降らすように他者が私を裏切るのは当然のことなのだ。何故なら彼は私ではないのだから。私の意思が全く介在しない介入も出来ない。だからこそ他者は他者なのである。しかし私は人はそのことを忘れる。他者である彼や彼女を私の意思が介在しまた介入出来る私の一部、つまり彼を私だと思い込む。すると彼は私だから当然私は彼に期待する。その期待通りに反応してくれたら当然私は喜ぶ。しかし反対にまるで期待外れの反応を彼にされたとき私は悲しむ。怒りの感情を抱く。まるでそれは不当な感情である。そんなことはにわか雨を降らす空に対して悲しみ怒っているのと何ら変わらないことである。空は私を裏切るからこそ他者なのであり、人間の他者も私を裏切るからこそ他者なのだ。そしてだからこそ私にとってその他者は他者であるそのこと自体によって至上の価値を持つ。何故なら他者とは非私であり、私という存在の外側、つまり夢ではない現実そのものだからである。その現実に裏切られたとき、私は人は悲しみ、怒り、苦しむ。しかしそのこと、ただそのことのみを通して私は人は現実と接触する。つまり現実に生きるのだ。夢なのか現実なのか確かめるときに頬をつねる、その方法は間違ってないのだ。苦痛、痛みこそ私が現実に接触している証拠である。他者と接触している証拠である。他者との完全な接触、それは現実との完全な接触であり、また真理=神との接触だ。神に触れた瞬間、私は人は傷つき、壊れ、引き裂かれ、消滅する。エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)。それは十字架であり恩寵である。空の上でそれは愛であり、地上では耐えることの出来ない致命的な裏切りとして顕現する。神は裏切りであり、現実は裏切りであり、他者は裏切りである。美しいものは裏切りである。それは私の人の胸を深く突き刺し、引き裂き、壊す。神は悲しく現実は悲しく他者は悲しく美しいものは悲しい。そして痛い。しかしだからと言ってマゾヒストたちのように苦痛や悲劇を追い求めたとしても他者は立ち現れない。彼が望む苦痛が彼の望む通りに彼の元へ訪れる、しかしそれは彼の内部の出来事である。反対しに血の涙を流し受苦を渇望し嘆願する彼のもとにその苦痛が訪れないようとしよう。その裏切りこそ他者の仕業であり、神の御業であり、恩寵である。恩寵を求めることは出来ない。恩寵は私の意識の外から空の上に於いては必然に地上に於いては偶然に与えられるものである。だから自殺は十字架から最も遠い。非現実であり、他者からの逃避、神からの逃避である。他者は求めるものではなく完全に与えられるものなのだ。だから他者に期待してはならない。空が晴れることを期待してはならないように。それは至高の他者を私に隷属させようという試みであり、聖なる現実への冒涜、神への反逆である。空を眺めるように他人を眺めよう。一切何も期待することなく。現実に対して完全に絶望しよう。空に対して絶望するように。そうすればきっと空を愛するように無条件に他人や現実を愛することが出来るようになる。私は期待しない。私は期待しない。私は期待しない。他人は現実は神は空である。祈りとは空、その完全なる空無へ我を捧げきることなのだ。

 ところで他者に期待せず、現実に希望を抱かず、神の恩寵を求めない。それはつまり結果を求めないということであり、未来に隷属した時間そのものを捨て去るということである。今を生きる。完全に無償の行為。祈り。太陽の盲目的爆発。蕩尽。それは時間と切り離された純粋行為。つまり遊び、真剣な遊びであり、芸術行為である。「芸術は爆発だ!」岡本太郎の顔が浮かぶ。そうだ。爆発のための爆発。ただそれだけだ。私はただ私の生命存在を爆発させる。咲き続ける。歌い続ける。書き続ける。ただそれだけなのだ。ただそれだけに専念すればいい。他者も現実も真理も恩寵も上の空、勝手にしやがれだ。