揺り籠の喪失

 

 わたしたちは、いろいろな罪をおかしたあげく、神から見捨てられた人間になってしまったのにちがいない。宇宙の詩をまったく失ってしまったのだから。

             --シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」より

 

 揺り籠、終わることのない反復への憧れ、法というものに対する渇望もまた揺り籠への憧れである。自由気ままで放縦な生活というものはその言葉がもたらすイメージほど愉快なものではなく、むしろ人はそのなかで与えられた自由に恐怖し、しまいにはそれを自ら捨て去る。完全な自由、それは揺れることのない揺り籠であり、そこで人は現実感を失うことがなく、しかしだから現実感を獲得することもない。つまり人は完全な自由のなかでは現実感というものを完全に喪失する。不安に絶叫する。一方、動物や昆虫や花々、自然は一見のところ自由そのものだが、彼らの生活は厳格な戒律、言い換えるなら生命のリズムに支配されている。それはやはり揺り籠で、その揺り籠を内に持つからこそ鳥は空高くに魚は広い海の何処までも遠くへと生き物は自由に生きることが出来る。人間というのはその知性ゆえに現実感とその生命のリズム、揺り籠があらかじめ失われているのだ。あの楽園の喪失は揺り籠の喪失である。だからその人間が自由であるためには人間自身の手で人工的にその生命のリズム、揺り籠をつくりだし、そのなかに入らなくてはならない。しかしその生命のリズム、揺り籠とはいったい如何なるものなのか?その問いこそあらゆる国の文化伝統を花咲かせたのだ。ひとつの国の文化、それは幾世紀の時間を経てあまた人々の血と汗の努力、かなしみやよろこび、あらゆる感情と人生、つまりはその国の長い歴史によって探求され練磨され築き上げられた珠玉の揺り籠である。しかし近代とはその揺り籠、文化伝統、生命のリズム、法を人々が自ら捨て去り、また滅ぼされた時代であった。彼らは自由を獲得し、自由を失った。同時に失われた現実感をただその物質的な量で補うようになった。