勤行の時間

 遊戯、完全なる遊戯は時計の外側にある。意味は勿論、如何なる結果もその間は求めることがない。だから不安もない。未来も過去もない。ただそこにあるのは光り燦く今この瞬間だけだ。

 夏の終わり頃にポール・ヴァレリーの詩集を手に入れてから、その内の「若きパルク」という詩を毎日一回は必ず読むということを繰り返してきた。今日も先ほど読んだところだ。この詩はフランスの詩のなかでも特に難解晦渋の名声高く、初めて読んだときはまるで外国語そのものを読んでいるようで全く意味がわからなかった。だからこそその意味が知りたくて、何十回とこうして繰り返し読んできたわけだが、だんだんとその意味を知るということはどうでも良くなり、ただこの詩を読むという時間が私にとって非常に大切な時間となってきた。何のためでもない。ただ詩を読むために読むだけの時間。意味も求めずに読む時間。すると不思議で、意味を求めずにただ純粋に繰り返し繰り返し読むようになってから次第にこの詩の意味が自然と紙に水が沁み込むように私のなかへ這入ってくるのだった。私は詩を読む本当のあるべき態度、本を読むときの本当のあるべき態度を理解した。それは勤行である。意味を求めず、如何なる雑念企図も心に抱かず、ただそこにある言葉を読む。繰り返し繰り返し読む。それは歩き疲れて、自分が森の中にいることさえも忘れたときに初めて聞こえてくる森の声だった。「若きパルク」を読む時間によって私は完全なる遊戯の時間を知ったのである。

 

 古典主義の教育は、フランスでは今でもやっているでしょうけど、昔式な「読書百遍意おのずから通ず」で、わけがわからないものを暗唱させなきゃいけないと思うんですよ。意味なんか何もわからないでも、それをやらなきゃ我々はクラシックというものに絶対親しむことができないんです。

    ーー三島由紀夫「告白 三島由紀夫公開インタビューより

 

 比喩や象徴などを理解する方法。それらを解釈しようとくわだてないこと。光が溢れ出てくるまで、じっと見つめつづけること。

    ーーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」より

 

 この勤行、完全なる遊戯の時間をもっと増やしていこうと思う。近現代の教育で致命的に欠けているのはこの勤行の時間であり、更に現代人の遊戯は消費と結び付き、だから完全なる遊戯ではなく、遊戯ですらもがっちりと時計のなかへ閉じ込められている。だから意識的に勤行、完全なる遊戯の時間を創造していかねばならない。偽りの遊戯、消費の罠を避けながら。