服を脱がす思想

 男性が抱く女性の裸への欲望。彼の女の服を脱がし一糸纏わぬ彼の女の姿、彼の女の秘密、真実を目にしたい。それは人間の男性の性欲の根幹を成す一つの要素だと思われ、実際男性もそのような欲望が自分自身にあると思い込んでいるが果たしてそうだろうか?女性の裸への欲望は近代に輸入された西洋の科学精神、客観的事実、真理を求めるという事物に対する消費的態度その一種に過ぎないのではないだろうか。
 西洋の歴史に残された数々の彫刻や絵画、そこに彫られまた描かれた膨大で豊穣な人体の裸の堆積に比して我が日本の彫刻や絵画にそのようにして人体の裸を描いたものは驚くほど少ない。それは肉体礼讃の西洋に対して仏教の影響下にあったこの国の肉体蔑視の文化的態度を著していると言われるがそれだけではあるまい。おそらくいにしえから我が日本人は裸と言うものに西洋人のようにまた近代現代の男性のようにそれほど興味がなかったのだ。それは彼らの自然及び宇宙に対する向き合い方そのものに符合する。彼ら日本人は近代遭遇した西洋の科学精神に衝撃を受けたほどに自然宇宙の秘密、その深淵の真理というものへの興味に欠けていた。だからこそ西洋に比して科学というものが発達してこなかったのだ。彼らにとって自然宇宙は解体し分析しそれを意味づける、つまり消費の対象ではなかった。彼らは自然宇宙をただありのままに破壊することなく消費することなく意味づけすることなく見続けた。彼らは自然そのものを愛し、その崇拝する自然に包まれて生きていた。それはそのまま女性の美というものに対する態度でもあった。裸、つまり女性の服の下の秘密真理意味などには興味がなかった。美はただありのままの表面にあった。それは彼の女の化粧を施した顔かたちの印象、仕草物腰全体から漂う雰囲気、声音や香りなどであり、かの女が纏う衣装も欠かすことの出来ない要素であった。日本人にとって女性の美は服を脱がして消費するものではなく服を着せたままただ眺めるものだったのだ。同時にそれは男性の美に対する女性の態度でもあったはずだ。そしてその表面の美に対する追求があの百花繚乱の衣装やあの繊細な所作立ち振る舞いに対する美学を生み出したのだ。日本人にとって衣装は手段ではなく目的であり、立ち振る舞いは手段ではなく目的であり、形式、型、言葉は手段ではなく目的だった。生きること、それも美しく生きること自体が目的だったのだ。その反消費的文化芸術の一つである浮世絵は反対に西洋人たちの度胆を抜いた。一つの山を何かの手段としてではなく目的として、つまり自然そのものを主題として描かれたその芸術、そのような視点態度を持つ人々が存在することに彼らは驚嘆したのである。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホもそのなかの一人である。