認識について

 動物の怯え警戒という状態と人間の不安の違い。動物は訪れる可能性のある脅威そのものを認識し警戒しているのに対し人間は脅威そのものよりもむしろ脅威に曝された際の自分の状態について脅威、不安を抱く。簡単に言うならば不安に対する不安である。それは純粋な認識者である動物と認識を認識する人間のその違いから派生する違いなのだと思われる。自分の認識に対する認識が強い人間、つまりより自意識が強い人間ほどその不安を抱きやすくなる。
 認識に対する認識。そこから人間の不安と欲望が誕生する。更に言うとこの認識に対する認識こそ結果であり意味である。つまり人間の不安とは結果意味に対する不安で人間の欲望とは結果意味に対する欲望である。
 認識する。それは今を認識している。認識を認識する。それは過去を認識している。過去を認識しているのは今だからそこに時間が発生する。その繰り返される過去から今という時間の認識はやがて未来という観念を誕生させる。
 認識に対する認識。結果及び意味。それは形なく実態のないものだから認識に対する認識、結果及び意味への不安や欲望は際限なく拡大していく。それは終わることがない。生きている間、彼は絶え間なくその認識に対する認識を追い、また認識に対する認識を認識し続け、しかし彼の本当に求める認識は決して彼に訪れることがない。彼が本当に求めている認識、それはこの今現実そのものに対する認識であり、認識に対する認識の結果現れる意味や結果という虚妄ではなく、純粋な認識によって立ち現れてくる真理、この世界そのものである。或る人々はそれを神と言う。
 認識に対する認識ではなく(我の認識)、純粋な認識(無我の認識)に立ち返らない限り、時間は消えず、不安も欲望も消えはしない。しかしここから道は二つへ別れる。認識に対する認識、私の認識を意識的に破壊して無意識の意識に立ち返ろうとするシュールレアリストやヘンリー・ミラーの方法。もう一方は認識に対する認識、知的な思考をむしろ極限へと推し進めてその認識自体が燃え尽きた夕焼けの先に純粋な無我の認識を獲得しようというヴァレリーヴェイユや三島の方法。それはおそらくバタイユヴェイユの分岐点でもある。(この分類はあくまで私の思索の現段階に於いてである。それは今後変動するかもしれないししないかもしれない)。
 認識に対する認識、つまりは私の認識思考を極限まで推し進めていかねばならない。夕焼け(認識に対する認識の果てにある純粋な認識)は朝焼け(純粋な認識)よりも更に純粋である。いやむしろ朝焼けは夕焼けの模倣、純粋な認識者は認識を認識する者が果てに辿り着く更に純粋な認識その世界の光を追っているのだ。