人が普通自分が認識していると思っているその認識は純粋なそのものに対する認識ではなくそのものに対する認識の認識である。木の下に眠る猫を見る。それは純粋な認識である。しかし木の下に眠る猫を見ていると彼自身が気が付き意識するその認識、それは認識に対する認識である。つまり彼は木の下に眠る猫を認識出来ない。木の下に眠る猫を認識しているのは彼の中の他者である。彼の中の言葉を知らぬ永遠の子供。その純粋な認識に立ち返ったとき、彼と彼の中の他者が和解したとき、彼は初めて木の下に眠る猫を認識出来る。しかもそれは純粋な認識よりも更に純粋さを極めた完全な認識である。それこそが詩の認識なのだ。