漢字とゴシックの神秘

 漢字というものが纏っている何とも言えぬその神秘性。それこそ形ないものを形あるもので探り続けてきた中世以降の日本人の世界解釈乃至現実認識の結果と言えよう。薔薇が薔薇の花を残すようにこの日本に残された漢字はこの日本の花である。まさに百花繚乱のその漢字たちを前に私が抱く神秘のイメージは共通してまた別の世界の中世、その認識の結晶物、西洋のゴシック寺院を思い出させる。
 ゴシック。そこから感じるのはまず何より恐ろしげな影のにおいである。それは子供の項怖くてでも目が離せなくてなかなか寝付くことが出来なかった天井の黒い染みであり、それは先がまるで見えずどこまでも或いは何処か未知の違う世界へと繋がっているように見えた暗い廊下であり、それはいつか忍び込んで探検しようと思い立ちしかし結局は忍び込まなかった真夜中に聳え立つ普段とはまるで違う顔をした学校の校舎であり、それは子供たちにとっては不可測で未知の彼らを恐怖させるしかし同時にこれ以上となく濃厚な夜のにおいである。暗黒時代。そういう呼び方もあるほどでゴシック乃至中世からはその濃厚な夜のにおいがぷんぷんと漂ってきて、だから私はゴシックや中世が好きなのだが、その中世の夜のにおい、不可測で未知な、つまり神秘のにおいを私は漢字(特に旧い漢字)その形表面からも嗅ぎ取る。
 ところでゴシック寺院はカトリック教会が布教の地の人々を融和的に滞りなく教化するために現地の人々彼らが元来信仰していた森の要素をその建物の中に取り入れた、だからあのような形になったのだという。つまりそれは中世の人々が彼らにはもう既にわからなくなってしまった、純粋認識者たちにだけには見えるその森、認識の認識者「私」にとっては形ない森、暗黒の森を認識し形にした結果なのだ。一方、日本人はそのようなゴシックの寺を造らなかった。彼らは言葉、漢字の形に於いて彼らに失われた暗黒の森、太陽に輝いていた万葉の森を探り認識し、パリのノートルダムにも負けることのない荘厳で神秘的なその大寺院を形作った。