稲葉真弓「エンドレス・ワルツ」Ⅲ

 阿部薫のサックスにも鈴木いづみの存在にも両方ともに言えることはそれが決してBGMやエキストラ、背景にはならないということだ。両方とも完全に主人公なのである。死の氷に包まれた極北ではそのようにして過剰に存在していなければ(エロスに溢れていなければ)存在することが出来ない。しかし高貴な雌の肉食獣そのものの姿であるいづみに対して薫の顔はとてもあんな凶悪で獰猛な破壊の音を出すとは信じられないほど優しく柔和な顔である。だからなのだ。もし彼が女だったなら化粧やファッション、そのスタイル、女の観念で武装して鈴木いづみのようになっていただろう。だが彼は男だった。エンドレス・ワルツの暗闇の中に彷徨う無力な子供として薫が描かれた場面を思い出す。北の絶対の氷を前に形にならずまたなれなかった彼は形をつくる、彼の周りを覆う全てを凍り付かせるしか生きる術がなかった。その武器がサックスであり発作的な暴力…。そしてその赤色でもない青色でもない緑色の手は暗闇の中で燃える太陽、形であり続けようとするいづみの生命、生への意志、エロスそのもののを凍り付かせてしまった。ビンの中にホルマリン漬けにされたいづみの小指は氷の意志(物の意志、タナトス)太陽の意志(生命の意志、エロス)、愛よりも憎しみよりも激しい二人の宿命が作り出した結晶、氷の中で燃える太陽なのだ。
 70年代の始まり1970年は誰よりも形ということにこだわりそれを追求し続けた一人の人間。形をつくる人でありまた自らそのものも形であろうとした三島由紀夫が死んだ年である。その頭(形(花)をつくる意志)と肉体(形(花)になろうとする意志)は分離してしまった。日本人は形になろうとする意志を捨てて形をつくる側、それも創造ではなくあらゆる生命自然を凍らせて物にしそれを大量に所有しまた消費することによって失われた形を補うようになった。太陽を捨てて氷に魂を売り、街はまた更に凍り付いて氷山のように蒼い摩天楼が続々と立ち並んだ。日本、いや世界全体が凍り付き北の砂漠と化したのだ。薫といづみ、二人はそのただひとつ突き付けられている現実、北の世界の氷の意志、死と真正面からぶつかり、それに抗って、踊り叫び続けて、散った。他の人々のように消費や意味でごまかす術を持たない、二人はあまりにも純粋で透明過ぎたのだ。だからそこに透けて北の果てが透けてくる。今も私を含め人の誰もの周囲を永遠の沈黙、死そのものが見えてくる。


 私も二人のように踊ろう。くるくると。北の果てに咲く花のように。何も見えない温度のないこの暗闇で雪白の血を撒き散らして、永遠に踊り続ける。私と私の中の彼女二人、私は彼女の背中を噛み、彼女は私の背中を噛む、だから太陽のように一人で、北の果ての蛇はくるくると永遠に踊り続ける。