谷崎潤一郎「人魚の嘆き」Ⅱ

 神秘の海はまた同時に死の海である。人魚と出会うには酸素ボンベ無しの素潜り、裸でその冷たい海に潜らなくてはならない。生半可な体力では人魚に会うどころか途中で力尽き鮫や蛸の餌食、最終的に藻の絡まる海底の骸骨となるだけである。数えることの出来ない美への生け贄たち。しかし谷崎はそうならなかった。誰よりも深く海へと潜りながらいつも彼は帰ってきてその海中で垣間見た人魚の姿を陸の人々に伝えた。それを可能にしたのは残された彼のあの頑健偉容な写真の容姿からも想像出来る谷崎彼自身の持つ生の力、満ち溢れるエロスの力である。まるで世界の終焉のように海へと沈みながらしかし翌日には何事も無かったかの如く絶対に昇ってくる太陽。しかし一方でその強壮なエロス、決して砕けない認識への意志、その強固さそれ自体が彼の存在をあの神秘の青い海、美しい人魚から遥か遠くに隔てているのだ。海への尽きせぬ憧憬、神秘、美への果てしない渇望、芸術家の創作創造に対する原動力、衝動はその不可能な距離によって生まれる。つまり芸術家という生き物は本来あの太陽のようにその存在が最も死(海)からかけ離れた存在なのである。言い換えるなら決して眠ることの出来ない一人の人間。この「人魚の嘆き」の主人公、幼くしてその両親から巨万の富を受け継ぎ豪奢な放蕩に明け暮れながらしかしもはや如何なる遊戯にも慶事にも酔う(眠る)ことが出来ず生そのものに膿んでしまったこの貴公子と呼ばれている青年には谷崎彼作者自身の砂漠が投影されているのだろう。ぎらぎらと容赦ない太陽(認識の力)の火炎に乾燥し果て如何なる蜃気楼の幻も消え去ったその焦熱地獄に恩寵の優しい雨を降らせ観念のミイラの危機に陥った彼を生き返らせてくれる、それこそあの人魚の青いまなざしだったのだ。