人魚は言葉と言葉の間の海に棲んでいる。彼がシュルレアリストならその言葉の形を壊して「私」の意識を眠らせて彼女の尾鰭の先を掴もうとするだろう。しかし谷崎はその方法を取らなかった。あくまでも彼は伝統的な手法を固守し「私」の意識を保持したままその暗い海の中へと潜りそこで彼の細密な言葉の網を縦横に広げて神秘の人魚を生け捕ろうとした。決して眠ることが出来ず、決して酔うことの出来ない、つまり絶対に壊れることのない観念世界の世界の住人「私」にはもうその方法しかないのだ。シュルレアリスムはあらかじめ谷崎には不可能であった(三島もヴァレリーヴェイユもそうだろう)。シュルレアリスムという方法が可能なのは眠り、酔うことの出来る、彼自身の中に生きた人魚が棲んでいる人間だけなのである。言い換えるなら「私」の意識と肉体が渾然一体と一つに繋がっている人間である。鏡を見てもそこに人魚の姿、面影を見ることの少しも出来ない意識と肉体が分断された完全に人工的で観念世界の住人、砂漠に住む「私」はあくまでもその持てる唯一の道具言葉で神秘の人魚へと近付くしかない(象徴主義)。良い夢であれ悪い夢であれ太陽(純然たる認識者)は夢を見ることが出来ないのである。
 フランスの詩人アルチュール・ランボーは詩を捨てて砂漠へ旅立った。詩、彼の中の他者、人魚の歌はもう他の何処にもなく、からからに渇き切ったこの世界で最も詩の海から遠く離れたその焦熱地獄の上にきらめく青い空、シェルタリングスカイ、極地の空からしか聞こえて来ないということをきっと彼は知ったのだ。或いは北の果ての岬。どちらにしても人魚、「私」の肉体はもうこの地上の彼方にしか棲息していない。私の生もそこにしかないのだ。