人魚は別に男でも良いのだ。かつてはそうだっだろう。男も女もみんな人魚だった。平安の貴族たちは男でも化粧していたし彼らは恋の熱情を歌にしていた。源氏物語光源氏のことは言うまでもない。或いはアマゾンやアフリカで今でもいにしえの生活を守り続けている現地民族。テレビの画面や写真を通して見る彼らの姿は一人一人がみんな花のように艶やかだ。そこに男女の差は無い。文明が男と女を精神者と感性者、観念の体現者と実存の体現者、花をつくる人と花である人、見る人と見られる人、月と海、人間と人魚、二つの対極に引き裂く。だがそんな二元論の世界も今では衰退し、男が精神、女が感性という時代は終わった。ならば男が感性を獲得し、女が精神を獲得したのか。しちゃいない。ここにあるのは感性に汚れた精神と精神に冒された感性だけだ。だから純粋な詩も超絶的な芸術もありはしない。しかしそんな風に中途半端になるのは当たり前で完全な精神を獲得するためには感性は邪魔だしその反対も然り。反対側の者、生け贄がどうしても必要なのだ。人間が人間であるための人魚。人魚が人魚であるための人間。しかしもうそれを他者に求めることは出来ない。男に完璧な精神=神を求めても女に完璧な感性=美を求めても無駄だ。だから完全を目指すならそこへたどり着きたいのなら自分自身の中にその相反する二つを求めつくりあげていかなくてはならない。死刑執行人で同時に死刑囚、花をつくる人であり花である人、海を征服する冒険者であり同時にその海を泳ぐ美しい人魚、男であり女、死にながら生きなくてはならない。しかし当然その両立は深刻に彼を引き裂く。致命的な分裂の危機を迎える。だがそれしかないのだ。アナイス・ニン鈴木いづみ岡本かの子或いは三島由紀夫ゴッホが今でも私の瞳に眩しいのは彼らがその両性具有的芸術家の先駆者だからで美しいものをつくりながら自分自身も美しくあろうとした人々だからである。