これからは下記
に考察、詩、小説、日記、写真、絵、
あらゆる私と非私を置いていこうと思います。
このはてなブログに載せた文章もいずれ全部移す予定です。
今はそれよりももっと古いものを置いている状況です。
良かったら私の中の万華鏡、覗いてみてくださいね。
神の実在を証明するために焼き殺された魔女たち。荘厳な絶対の光の塔の裏に差すどす黒い影。思考するほどにはっきりとしてくる非思考の世界。顔のない人魚の顔。
認識、言葉の世界の住人である私が言葉によって認識を深めれば深めるほど私の認識は本当の現実、海から遠ざかる。文明の発達と洗練が人を海から遠ざける。文明、それは海からの距離なのだ。
まるで海のよう青い空へと突き刺さる摩天楼の群れ。風に撫でられて波打つ長い髪やスカート。その中の柔らかい肉や優しい仕草。文明はその強大な力を手に入れた代償に海を喪失した。だから文明は海を求める。しかし本物の海へと近付くのは怖いからたとえば女を海に仕立て上げた。
でも中にはその人工的な海、女の衣装を通り越して本物の海へたどり着いてしまう人間も居る。極度に人工的、精神そのものである彼らは造られた海で満足することが出来ない。ゴッホもそんな人間の一人だろう。彼は画架を抱えて無謀にもその本物の海へ旅立ってしまった。そしてその虚無の渦に飲み込まれた。本物の海、それは暗く冷たい不条理、氷の夜、死そのものである。
或いは自分自身が女になることを通してあの海へ還ろうとする人間もいる(グラン・ブルー、イルカと海へ還ったジャック・マイヨール。禅。私の消滅。)。言葉と言葉の間にある裂け目へ下降落ちていくこと。詩。シュルレアリスム。無意識。近代の西洋人が発見したもの。それは彼らが逃避し続けてきた海、不条理、非言葉、私の死の世界。
私の中の男と女の太陽と海の精神と肉体の人間と人魚の生と死の別離と和解、そして融合、夕焼けの海。その海を見ることが芸術や宗教、或いは恋愛、あらゆる人間の意志欲望の根本動機ではないだろうか。何故ならその海こそ本物の海でもあり人工の海でもある、完全な海、精神と物質がひと繋ぎとなったパーフェクトワールドだから。
本当の海は太陽の熱にも月の光にも汚されていない純粋な海は焼けるほど冷たくそして見えない。氷はその本当の海に限りなく近い。見えなければ完璧だろう。その透明な氷、真空が片時も離れず私の周りを覆っている。初めて目にしたものを親だと思い込む家鴨の雛のように顔の無い彼女が何処までも付きまとって追い掛けてくる。だからわざわざ海を探しにいく必要なんてないんだ。誰かにその海の幻影を探し求めることももはや無い。彼女が嫉妬するだろう。恐ろしく長い髪を襞が波打つ黒いロングスカートのように引き摺り青白い両腕をゾンビのように伸ばして声もなくただ熱と光だけを求めて悲しく永劫の闇をさまよっている顔の無い人魚の彼女が。
人魚は別に男でも良いのだ。かつてはそうだっだろう。男も女もみんな人魚だった。平安の貴族たちは男でも化粧していたし彼らは恋の熱情を歌にしていた。源氏物語の光源氏のことは言うまでもない。或いはアマゾンやアフリカで今でもいにしえの生活を守り続けている現地民族。テレビの画面や写真を通して見る彼らの姿は一人一人がみんな花のように艶やかだ。そこに男女の差は無い。文明が男と女を精神者と感性者、観念の体現者と実存の体現者、花をつくる人と花である人、見る人と見られる人、月と海、人間と人魚、二つの対極に引き裂く。だがそんな二元論の世界も今では衰退し、男が精神、女が感性という時代は終わった。ならば男が感性を獲得し、女が精神を獲得したのか。しちゃいない。ここにあるのは感性に汚れた精神と精神に冒された感性だけだ。だから純粋な詩も超絶的な芸術もありはしない。しかしそんな風に中途半端になるのは当たり前で完全な精神を獲得するためには感性は邪魔だしその反対も然り。反対側の者、生け贄がどうしても必要なのだ。人間が人間であるための人魚。人魚が人魚であるための人間。しかしもうそれを他者に求めることは出来ない。男に完璧な精神=神を求めても女に完璧な感性=美を求めても無駄だ。だから完全を目指すならそこへたどり着きたいのなら自分自身の中にその相反する二つを求めつくりあげていかなくてはならない。死刑執行人で同時に死刑囚、花をつくる人であり花である人、海を征服する冒険者であり同時にその海を泳ぐ美しい人魚、男であり女、死にながら生きなくてはならない。しかし当然その両立は深刻に彼を引き裂く。致命的な分裂の危機を迎える。だがそれしかないのだ。アナイス・ニンや鈴木いづみや岡本かの子或いは三島由紀夫やゴッホが今でも私の瞳に眩しいのは彼らがその両性具有的芸術家の先駆者だからで美しいものをつくりながら自分自身も美しくあろうとした人々だからである。
ヴィンセントと書かれた空色のバケツのような鉢植え。たくさんの向日葵が挿さっている。まるでそのヴィンセントという鉢植えの中に金色の朝日が溢れ始めてそこから零れ落ちた光の塊一つ一つが大輪の向日葵の花になっているような。しかしこの向日葵たちはどうも落ち着かない。ちょうど目玉のような花芯をきょろきょろとみんなばらばらの方向へ向けて、それはまるで長過ぎる夢から目覚めたばかりの人間、自分自身が何者かさえも忘れてしまった人間がここは何処なのだろう、わたしは誰なのだろうと辺りを見回しているようにも見える。黄色い花びらをたてがみのように逆立て生き生きと希望に満ち溢れた向日葵もあるし中にはもう花びらを散らし今枯れようとする向日葵もある。ヴィンセントから分裂したヴィンセントたち。わたしの起源を探すわたしたち。ああ、眩暈がするようだ。自分の顔を確かめようと覗き込んだ鏡が万華鏡だったら。