2019-07-01から1ヶ月間の記事一覧

夏がやってきた日

朝目覚めると窓の外は既に熱気を孕んだ眩しい光に包まれていた。雀たちの鳴き声、近所の家から車が発進する音も聞こえる。まるでこれから友人たちと車で海へ出掛けて行くような爽やかさ。こんな夏の朝を待っていた。真っ白な牛乳を飲んで食パンを齧る。 じん…

裂けたぬいぐるみ

私は一匹の猫を飼っている。茶色や黒色がごちゃまぜにしかし絶妙な統一感を以って配されているその毛並み、所謂サビ猫と言われている猫の雌だ。一応、名前のようなものが付けられているが私がその猫に向かってその名前のようなものを呼ぶ事はほとんど無い。…

芸術と恋

恋をすると人はその衣装を脱がされ、ほとんど裸に近い状態となる。青い空を流れる白い雲、道端に咲いている花の香り、小鳥たちの黄色い歌声、現実はそれ以前とは比較出来ないほど彼に接近し、それまで見逃していた多くのものを彼は感じられるようになる。そ…

オブジェ化した私

マゾヒストは当然マゾヒストを自分の内側に飼っているが同時にサディストをも内包している。彼女はその身を彼に鞭打たせるが、その事を選択したのは彼女自身であり、故に彼女は彼に鞭打たれる前に彼女自身を彼女自身で鞭打っているのだ。彼女を鞭打つ彼女は…

復活したヴィーナス

書くという事は殺すという事である。マゾッホは毛皮を着たヴィーナス、ワンダという一人の女性を描き切る事で彼女を殺害した。そうして彼は彼女から自由になった。マゾッホはワンダを殺すのと同時に古い自分自身を殺害したのだ。その苦しい脱皮を経て新しい…

ものを書くという事

早朝は小雨が降っていたが、陽が昇り切る頃には止んだ。しかしまた曇天から細かい雨が降り始めている。 昼前、私は灰色の高層ビルとビルの合い間にある小さな公園で昼食を食べていた。プラスチックな光沢を放つ人工の芝が敷き詰められ、そこに数か所冷たい石…

七月十五日の日記「毛皮を着たヴィーナスの構成」

小説毛皮を着たヴィーナスはマゾヒズムの願望を密かに抱く主人公が同じ性癖を持つ友人ゼヴェリーンから彼のめくるめく体験を綴った体験記を見せて貰い、奴隷と残酷な女主人の物語はこの体験記に沿って進行していく。毛皮を着たヴィーナスの女主人様に裸で跪…

七月十四日の日記「マゾッホの毛皮」

マゾッホと谷崎潤一郎の作品を比較すると、女性崇拝という点に於いてはもちろん共通しているが、谷崎の方はマゾッホよりも女性の肉体そのものに対するフェティッシュな欲望が顕著に目立つ。一方マゾッホが描写する女性の肉体は意外な程あっさりしていて、谷…

七月十三日の日記「マゾヒズムとリアリズム」

マゾヒストの書く小説は異様な熱気を孕む事が多い。マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらそれを感じている。それは谷崎潤一郎の小説を読んだときに感じた熱気と同質のものである。その作品の熱気はそのまま作者自身の熱気なのだろう。牡牛のような興…

七月十二日の日記「小説家の自殺」

小説を書くという事は言うまでもなく唯一人の孤独な作業である。彼はたった一人で太陽を造り、星々の運行を設定して、地球を誕生させて、そこに木を植え草を植え、動物や昆虫を繁殖させ、人類を誕生させ、村を造り街を造り、そこに繁多な登場人物たちを置か…

7月11日の日記「死刑囚にして死刑執行人」

音楽であれ文芸であれ絵画であれ、凡そ人間が芸術作品を鑑賞したいという本源的動機は一つに決まっていて、それは美しいものを前にして我という衣装を脱ぎ去り裸になりたいという願望である。自分自身を忘れて何もかも忘れて彼は今この瞬間に酔ってしまいた…

7月10日の日記「マゾヒストの芸術家」

朝方は相変わらず曇っていたが午後になると晴れ始めた。久しぶりに相見えた太陽に心は自然と高揚し、額や鼻の先をその光と熱に晒しながらいつもより余計に街の中を街の外を歩き回った。 マゾヒズムには大別して二種類あり、衣装を剥ぎ取って欲しいと願望する…

7月9日の日記「異端のマゾヒズム」

昨日よりはましになったとはいえ今日も肌寒い一日だった。このまま永久に夏は来ないのじゃないか、そのまま地球は氷河期に入っていくのではないか、そんな下らない妄想をするのは久しくまともな太陽を拝謁していないせいか。とはいえ最近貰った季節外れの秋…

七月八日の日記「正統のマゾヒズム」

朝は7月とは思えない肌寒さ。土の中の蝉もきっと凍えていた事だろう。 マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらマゾヒズムについて考える。 マゾヒズムという概念にも正統と異端があって、正統なマゾヒズムというのは当然の事ながらマゾヒズムという言…

ビン

私の思考や感情、私の観て来た世界、私の全てが詰まったひとつのビンがある。そのビンは黒く濃いガラスで覆われていて外からその中身を窺い知ることは出来ない。そのビンの中身を見たり聞いたり触ったり出来るのは私自身だけなのだ。 でもたまにビンの中身を…

ピアノ

其れは、後頭部に重く冷たい銃剣を突き付けられ、許しを請いながらピアノを弾く老いた男の死刑囚だった。男の震える手が鍵盤を叩くたびに調子外れの音が辺りに響き渡る。そのたびに男は後頭部を銃で小突かれて、其れを取り囲んだ数を知れない観衆たちの笑い…

接触

夜間を通して降り続いた雨も朝には霧雨となり、昼を過ぎた頃には完全に止んでいたが空の上は未だに襞の陰影がふやけた牛の小腸のように見える灰白色の雲に覆われ、羽ばたいて横断する鳥たちの影を殊更黒く際立たせていた。 鴉が虚空を頻繁に往復している。黒…

想像力

想像力が人間を生の現実から遠ざけ、想像力が生身の人間を現実から守っている。或る一つの街とは或る一つの人間集団が造り出す共同的想像力の結晶である。 全ての欲望は想像力によって人間が生の現実から遠ざけられていることから生じている。想像力は生身を…

私は言葉を憎悪してきた。言葉を殺す現実をひたすら探し求めてきた。言葉は私の現実を小さく閉じ込める檻の様なものだった。私はまた現実に恐怖してきた。現実を殺す言葉をひたすら探し求めてきた。現実は無際限に拡がっていく厄災の箱だった。 そうして言葉…

部屋のなかを一匹の小さな黒い蠅が飛んでいる。飛ぶことの楽しさを謳歌するように部屋を飛び回っている。高い空を飛ぶ鳥の黒い影を思わせる。 高く広い空を飛ぶ鳥の姿が黒く小さな蠅のように見える。ということは、鳥たちには私が地上に張り付いた小さい黒い…

尻尾

陽が落ちて玄関の前を通ると、何かの気配が素早く靴箱の陰に隠れたのを見止めた。ゴキブリにはもう見慣れていてそれがゴキブリでないことは直ぐにわかった。更に良く見てみると靴箱の陰から白く細い尻尾がはみ出している様子が伺えた。それはまだ身体の小さ…

傷跡

月の見えない暗い夜が明けると太陽の見えない白い朝が訪れた。 二つの瞳は夢から半ば覚めていなかった。白い蛍光灯が縦一列に並んでいる天井が酷く眩しく見える。熱を感じさせない観念的なその光は吊り革の丸いプラスチック製の輪、中吊り広告紙の表面、ステ…

ソフトクリーム

気が付くと目の前に車椅子があって白髪のおばあさんが座りぼんやりと春色に染まり始めた平原を一人静かに眺めている時折吹き付ける生暖かい風が白い髪を微かに揺らすしかしその儚げな肩や背中は忘れられた冬の思い出のようにまるで動くことがなかった すると…