ピアノ

 其れは、後頭部に重く冷たい銃剣を突き付けられ、許しを請いながらピアノを弾く老いた男の死刑囚だった。男の震える手が鍵盤を叩くたびに調子外れの音が辺りに響き渡る。そのたびに男は後頭部を銃で小突かれて、其れを取り囲んだ数を知れない観衆たちの笑い声がどっと沸き起こり、其れ等を遥か遠方高座で退屈そうにを見下ろす独裁者の口の端が醜く歪む。男はピアノに其のひび割れた手で触れたことも、ピアノを其の深く窪んだ黒い目に映したこともなかった。それでも男は遠い昔耳にしたメロディを再現しようと白練の鍵盤に指を叩き続けた。其れは男が唯一聞いたことのあるメロディであり、其れは幼い頃に聞かされた母の歌声だった。鍵盤を叩く男の指に熱が帯び始める。思い出すことすら出来ない母の顔。破れた指先の皮膚から流れ落ちた血で白練の鍵盤が赤黒く染まる。母の柔らかな腕に抱かれて聞いた其の歌だけが男と母を繋いでいた。相変わらず、男の弾くピアノの音は調子が外れ、其れを弾く男の姿は滑稽だったが、男を笑う者は誰一人として居なくなっていた。気が付くと、観衆は男のピアノに合わせて其の歌を歌い始めていた。