私の彼方に居る私

 認識とは感じることである。光、音、匂い、味、温度、弾力や硬度。認識とは現実にあるものを感じることである。何処から認識するのだろう?それは現実にあるものの外側からである。認識者は現実の外側に存在しているから内側の現実を認識することが出来る。石は何も認識しない。石は現実の内側にある。私は認識する。私は現実の外側にいる。私が石を見る。それは外側が内側を見ているということだ。外側と内側、言い換えるならそれは生の側と死の側である。私と石の間には生と死を分かつ河が流れている。石はいつも私にとっては彼岸、彼方にある。

 石だけではない。私に認識可能なあらゆるもの、つまり私が感じる現実は私(認識者)の彼方にある。私は死の世界に取り囲まれている。

 私が直接認識出来るのは物だけである。他者の認識を私は直接に認識することが出来ない。言葉であれ肌の触れ合いであれ必ずそこには非認識の物、死物が媒介しているのである。あまりにもそれが当たり前だから人は他者の認識を直接に認識しているような錯覚に陥る。しかしそんなものは想像である。私にとって物は彼方にありその物の彼方にあなたがいる。つまりあなたは私の彼方の彼方にいる。遠い。無限に遠いのだ。しかしそれは私にとっての私も同じことである。私は私を認識する。そこにはやはり物が媒介するから私にとって私は彼方の彼方にいる。