2019-01-01から1年間の記事一覧

漫画のリアリズム

現代の我が国の言論界に於いて明治の暁以来権勢と猛威を振るっていた蒼白きインテリ、つまりは観念的思考の持ち主はすっかりとその姿を消した。小説に於いても純文学は滅びたと言われる。しかしそれは当然の帰結で、野性的思考を喪失し、青臭く独りよがりで…

血と汗の言葉

社会的な地位と思考の関係。往々にして、その人間の社会的な地位が高まる度合いに比例して彼の思考に占める観念の領域は拡大し、反対に野生の領域は減退する。雲を突く高層ビルの頂きで高級な革張りの社長椅子にふんぞり返っている彼は観念的思考の持ち主で…

観念の思考と野性の思考

ものを書く人には二種類居て、それは知っている物事を書こうとする人と物事を知る為に書こうとする人である。前者は頭の中で既に完了している思考をただ紙の上に書き写すだけである。一方、後者はというと書き始める段階では何も無い。真っ白だ。それは言い…

黒い蠢き

蝉が落ちていた。さかさまにひっくり返り空を仰いでいる。玄関を出てすぐの白い石畳の上だ。良く見ると手足が動いている。ゆっくりとゆっくりと。片手で掴み取って私はその蝉を白い木の幹へと張り付けた。その蝉が木の上を目指してゆっくりと動き始める。私…

宿命論

煙草を買う為に家から歩いて近所のコンビニへと行く。十分少々のその時間の内に私は道で十匹を超える蝉の死骸を目にした。空へと両手両足を伸ばしたまま枯死している彼、滅茶苦茶に踏み潰されてコンクリートの地面と殆ど一体化している彼。もう既に八月も後…

私の黒い人形

純粋な人間ほど社会の色に染まりやすい。彼等はその純粋さ故に素朴に素直に何の疑いも無く社会を信用し、いつの間にか社会そのものになっている。真っ白ほど汚れ易いものはないのだ。彼が人間であればあるほど彼を人形にするのは易しくなる。既に別な色に染…

私の知らない海

風が吹き荒れている。近所で改装中のビル、その外壁全域を覆い包む灰色のシートが強い風を受けてぱたぱたとまるで港に停泊している巨大な船の帆のようにはためいている。「出航の朝だ」私は呟く。何処へ?私の知らない海へ旅立つのだ。昨日の朝、人差し指の…

幽体離脱

既に夜は明けていた。私は駅の改札を潜り抜けていた。朝も夜もない駅の構内。掲示板には先々週に終わった祭りのポスターがまだ貼られている。私が行かなかった祭りのポスターだ。構内には誰も居ない。私は階段を昇り始める。一段、一段、駅のホームへと上が…

聖雨

※<R18>性的な表現があります。18歳未満の方は移動ください。 関東にまた台風が近付いている。大粒の激しい雨が降ったかと思えば間も無くしてそれが嘘のように晴れ渡る。性急で気紛れな大空の交響曲。その出鱈目な指揮の動きに合わせて大勢の蝉たちが鳴い…

窓の外のひまわり

酷い憂鬱と倦怠に包まれている。憂鬱がみしみしと身体を圧迫する。一歩たりとも動けない。硬い床の上に横たわっている。蝉の声が遠くに聞こえる。また更にみしみと身体が圧迫される。衝動的に自分の身体を引き裂いてしまいそうだ。そうしたら何かが出ていく…

中村光夫の文學論と三島由紀夫

芸術とは教育の敵であり、芸術家とは社会の敵である。私は幼い頃から私はその本質を無意識的に朦朧と感じ取ってはいた。しかしそれを明確な言葉として意識するようになったのは最近の事であって、中村光夫の文學論という本を読んでからの事である。 中村光夫…

芸術と教育論

教育というものが人間を人形にする為の機関であると先日ここに書いた。それに対して逆に人形を人間に戻す機関というものが存在する。それが芸術である。音楽であれ、絵画であれ、文学であれ、その芸術作品と接している時間、彼は衣装を脱がされ裸の元の姿に…

少年と人形

人間が社会化されるという事は人間が人形化されるという事である。生まれたままの姿で、言い換えるならありのままの姿で大人になる者はいない。大人になるとは人形になるという事である。では、一体どのようにして社会は一人の人間を一体の人間にするのだろ…

人形の殺人と自殺

例えばスーパーへと買い物に行く。肉や野菜を籠に入れてレジへと並ぶ。酷い長蛇の列の最後尾。店員の動作が非常に遅い。並んでいる人々は皆苛々が募ってまるで悪鬼のような顔をしている。やっと自分の番が来る。しかしやっぱり店員は遅い。のろのろしている…

人形に対する考察

人形とは一体何か。最近になってそんな事を考え始めたのはこの日記にぬいぐるみの事について書いた事がきっかけなのだが、人形というものはぬいぐるみほど幼い私の近くには居なかった。むしろ私は人形を嫌悪しまた恐れてさえもいた。それは私の早過ぎるほど…

夏がやってきた日

朝目覚めると窓の外は既に熱気を孕んだ眩しい光に包まれていた。雀たちの鳴き声、近所の家から車が発進する音も聞こえる。まるでこれから友人たちと車で海へ出掛けて行くような爽やかさ。こんな夏の朝を待っていた。真っ白な牛乳を飲んで食パンを齧る。 じん…

裂けたぬいぐるみ

私は一匹の猫を飼っている。茶色や黒色がごちゃまぜにしかし絶妙な統一感を以って配されているその毛並み、所謂サビ猫と言われている猫の雌だ。一応、名前のようなものが付けられているが私がその猫に向かってその名前のようなものを呼ぶ事はほとんど無い。…

芸術と恋

恋をすると人はその衣装を脱がされ、ほとんど裸に近い状態となる。青い空を流れる白い雲、道端に咲いている花の香り、小鳥たちの黄色い歌声、現実はそれ以前とは比較出来ないほど彼に接近し、それまで見逃していた多くのものを彼は感じられるようになる。そ…

オブジェ化した私

マゾヒストは当然マゾヒストを自分の内側に飼っているが同時にサディストをも内包している。彼女はその身を彼に鞭打たせるが、その事を選択したのは彼女自身であり、故に彼女は彼に鞭打たれる前に彼女自身を彼女自身で鞭打っているのだ。彼女を鞭打つ彼女は…

復活したヴィーナス

書くという事は殺すという事である。マゾッホは毛皮を着たヴィーナス、ワンダという一人の女性を描き切る事で彼女を殺害した。そうして彼は彼女から自由になった。マゾッホはワンダを殺すのと同時に古い自分自身を殺害したのだ。その苦しい脱皮を経て新しい…

ものを書くという事

早朝は小雨が降っていたが、陽が昇り切る頃には止んだ。しかしまた曇天から細かい雨が降り始めている。 昼前、私は灰色の高層ビルとビルの合い間にある小さな公園で昼食を食べていた。プラスチックな光沢を放つ人工の芝が敷き詰められ、そこに数か所冷たい石…

七月十五日の日記「毛皮を着たヴィーナスの構成」

小説毛皮を着たヴィーナスはマゾヒズムの願望を密かに抱く主人公が同じ性癖を持つ友人ゼヴェリーンから彼のめくるめく体験を綴った体験記を見せて貰い、奴隷と残酷な女主人の物語はこの体験記に沿って進行していく。毛皮を着たヴィーナスの女主人様に裸で跪…

七月十四日の日記「マゾッホの毛皮」

マゾッホと谷崎潤一郎の作品を比較すると、女性崇拝という点に於いてはもちろん共通しているが、谷崎の方はマゾッホよりも女性の肉体そのものに対するフェティッシュな欲望が顕著に目立つ。一方マゾッホが描写する女性の肉体は意外な程あっさりしていて、谷…

七月十三日の日記「マゾヒズムとリアリズム」

マゾヒストの書く小説は異様な熱気を孕む事が多い。マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらそれを感じている。それは谷崎潤一郎の小説を読んだときに感じた熱気と同質のものである。その作品の熱気はそのまま作者自身の熱気なのだろう。牡牛のような興…

七月十二日の日記「小説家の自殺」

小説を書くという事は言うまでもなく唯一人の孤独な作業である。彼はたった一人で太陽を造り、星々の運行を設定して、地球を誕生させて、そこに木を植え草を植え、動物や昆虫を繁殖させ、人類を誕生させ、村を造り街を造り、そこに繁多な登場人物たちを置か…

7月11日の日記「死刑囚にして死刑執行人」

音楽であれ文芸であれ絵画であれ、凡そ人間が芸術作品を鑑賞したいという本源的動機は一つに決まっていて、それは美しいものを前にして我という衣装を脱ぎ去り裸になりたいという願望である。自分自身を忘れて何もかも忘れて彼は今この瞬間に酔ってしまいた…

7月10日の日記「マゾヒストの芸術家」

朝方は相変わらず曇っていたが午後になると晴れ始めた。久しぶりに相見えた太陽に心は自然と高揚し、額や鼻の先をその光と熱に晒しながらいつもより余計に街の中を街の外を歩き回った。 マゾヒズムには大別して二種類あり、衣装を剥ぎ取って欲しいと願望する…

7月9日の日記「異端のマゾヒズム」

昨日よりはましになったとはいえ今日も肌寒い一日だった。このまま永久に夏は来ないのじゃないか、そのまま地球は氷河期に入っていくのではないか、そんな下らない妄想をするのは久しくまともな太陽を拝謁していないせいか。とはいえ最近貰った季節外れの秋…

七月八日の日記「正統のマゾヒズム」

朝は7月とは思えない肌寒さ。土の中の蝉もきっと凍えていた事だろう。 マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらマゾヒズムについて考える。 マゾヒズムという概念にも正統と異端があって、正統なマゾヒズムというのは当然の事ながらマゾヒズムという言…

ビン

私の思考や感情、私の観て来た世界、私の全てが詰まったひとつのビンがある。そのビンは黒く濃いガラスで覆われていて外からその中身を窺い知ることは出来ない。そのビンの中身を見たり聞いたり触ったり出来るのは私自身だけなのだ。 でもたまにビンの中身を…