人形に対する考察

 人形とは一体何か。最近になってそんな事を考え始めたのはこの日記にぬいぐるみの事について書いた事がきっかけなのだが、人形というものはぬいぐるみほど幼い私の近くには居なかった。むしろ私は人形を嫌悪しまた恐れてさえもいた。それは私の早過ぎるほど早くに始まった人間嫌いの傾向を反映しての事でもあっただろうし、人形そのものが本質的に備えている或る種の不気味さを鋭敏に感じ取っていたからでもあろう。私を人形から遠ざけたもの、それはそのままぬいぐるみには無い人形というものだけが内包している特質を浮き彫りにする。
 ぬいぐるみと人形との決定的な差異、それは言うまでも無く、動物を模して造られているぬいぐるみと違って人形というものが人間を模して造られているという点である。先のぬいぐるみに対する考察に於いて私はぬいぐるみというものが実際の現実に生きている動物から全ての野性と有機性を奪い取ってばらばらに解体し人間の観念によって再び構成されて造られた動物、つまり動物の死体なのだという事を述べた。基本的なその構造は人形に於いても何ら変わる事はない。実際の現実に生きている人間という生き物からその外見内面の個性を含めて、還元不可能な有機性の一切、つまりは生命を剥ぎ取り、ばらばらに解体して人間の観念によって再び構成されて人形は出来上がる。それは同時に人間の死体である。
「あたしはお父さんとお母さんの人形じゃないわ」
「私は貴女に操られた人形に過ぎなかった」これ等の言葉は人形というものが持つ人間にとっての意味を明瞭に表している。人間が人形という言葉を使用するとき、そこには自我や意志を決して持つ事の無い人の形をした物という意味が込められている。言い換えるとそれは魂の無い肉体であり、つまりは人間の死体である。
 とはいえ、人間というものはその社会に出ていく過程で非社会的な人間の部分を強制的に削ぎ落される。大人になって尚ありのままの自分で生きていく事は許されていない。彼は社会によってあらかじめ用意されているパターンの枠に押し込められ、そこからはみ出す余計な部分は捨てるように迫られる。しかし、その部分こそ彼という人間の有機性の大部分であり彼の生命、魂そのものなのだ。彼という人間は社会に殺害される。代わりに人形と化した彼が社会の中に現れる。
 大人たちは人形である。しかし本物の人形のように完全な人形ではない。大部分は殺害されるが、生き残っている部分も存在している。その割合は社会の種類や個々の状況によって異なる。とはいえ、大抵は半死半生の状態である。完全な人間として生きている者、或いは完全な人形として生きている者、王と奴隷の時代は遠く昔話で、現代は誰もが半ば人間半ば人形の状態に置かれている。
 幼い子供の描くお父さんやお母さんの絵。その大抵は酷く平坦で酷く歪んでいる。私にはそれが彼の描写技術の拙さだけに還元される問題などではないように思われる。幼い子供は彼が見た通りに絵を描いているのではないか。つまり、自分たち大人の本当の姿はあの絵の中のように酷く平坦で酷く歪んでいるのではないだろうか。幼い子供の純粋な瞳は半死半生、半分人間で半分人形の我々の姿をいつもありのままに見ているのではないだろうか。我々大人にはもうその視力は失われている。なぜなら我々は半死半生であり、完全な人間ではないからである。しかし至極稀に完全な視力を失わずにそのまま大人になる人間がいる。絵画の天才はそういう種類の人間ではないだろうか。
 少女は人形を欲しがる。少女は人間の死体を欲しがる。生きて動いている人間はそれが例え半死半生であっても彼女の自我を投影するには不適格だ。まるで意志を持たない人形だけに彼女は憑依出来る。その人形を使って彼女はおままごとをする。彼女自身がその役をこなすにはまだ余りにも彼女は生の人間であり過ぎるのだ。お父さんやお母さんは半死半生である。その行動や行為を模倣するには彼女も半死半生にならなければならない。彼女は自分を殺害して小さな人形と一体化する。そうする事によっておままごとは初めて成り立つのだ。
 我々は半死半生である。我々は半分人間で半分人形である。そんな我々の内には常に完全な人間になりたいという欲求が渦巻いている。より完全な人形にされてしまっている人間ほどそう思っている。それは我々の記憶の中に完全な人間だったときの記憶、つまりは幼い頃の全体験が依然として色濃く刻まれているからであろう。或いは社会を始める前の根源的な生物の記憶が身体の奥底に刻まれているのかもしれない。どちらにせよ、我々大人は完全な人間としての全的な体験に飢えている。古代や中世の祭りはそれを可能にした。祭りは半死半生の人間が完全な人間に戻る瞬間、言い換えばそれは彼がその野性を取り戻す瞬間であり、その魂と生命を復活させる儀式であった。それが本当の意味での祭りである。しかし、現代に於いてそんな祭りが何処にあるだろうか。あるのは形骸化した祭りばかりである。祭りもまた死体となってしまったのだ。
 芸術と戦争はそんな本当の意味での祭りの延長線上に、或いはその代替品として発展していった。しかし、その祭りとしての芸術も祭りとしての戦争も今は鳴りを潜めている。なぜだろうか。そうした背景には現代人(この言葉は好きではない。例えばアマゾンの奥地で暮らす人々も現代人である事には変わりないからだ。所謂文明人気取りの驕りと見下しが見え隠れする。だから私は我が国と同じような社会の形態を営む人々という意味で使っている)が古代や中世の人々と比して限りなく自由な状況にある事、また祭り及び芸術や戦争の代替品を金を出せば幾らでも手軽に消費出来る事(情報化革命はその金の必要さえも殆ど無くなってしまったが)、或いは人間そのものの生命力が低下縮小してぶかぶかの枠に嵌められる事がなんら苦痛では無くなった事など、いろいろな要素が近因遠因としてあるだろう。とにかく我々は古代や中世の人々程切実に完全な人間になりたいという欲求を持つ事が出来ないでいる。半分人形で半分人間でいながら、その状況をさして苦とも思わないのである。そこからは祭りに対する激しい情熱も生まれないし、そこからは世紀を超えるような優れた芸術作品も誕生し得ない。彼等にはそんなもの必要ないのである。
 しかしながらそんな現代社会に於いても痛切に、まるでそれが無いと死んでしまうかのように祭りや芸術を待ち望み続けている人間は僅かながら存在する。彼は巨人である。彼は巨人並みの野性と生命力、更にはそれに応じて広大無辺の巨大な自我精神を持っている。しかしそんな彼の前に置かれているのは彼から見たら小人にしか見えない人形の着ぐるみである。彼はその中に自分を押し込めなくてはならない。押し込めなくては社会が彼という存在の生存を許さない。そうして巨人である彼は無理矢理にその小人の人形の着ぐるみの中に押し込められる。耐え難い苦痛が彼を毎日襲う。その耐え難い苦痛はそのまま彼の切実な欲求となり、それは祭り及び芸術と戦争への欲求、しかしその根底は彼の完全な巨人としての姿を取り戻したいという願いである。とはいえ、そんな彼の願いを叶えてくれる祭りも芸術も戦争も現代の社会には勿論皆無である事は言うまでもない。彼は絶望的である。彼は完全に孤立している。そんな彼が取る態度は三つぐらい予想される。それは彼を苦しめるこの社会そのものを木っ端微塵に粉砕破壊しようとするか、巨人の自分に相応しい大きさの人形の着ぐるみを自らの手で作り出そうとするか、それともひたすら苦痛と自壊の危機を耐え忍んで祭りの奇跡を待つかである。かくして三種類の人間が出来上がる。テロリスト、芸術家、待ち続ける人、彼等は根底的に同じ人なのだ。ただその方法が違うだけなのである。
 私は一人の巨人を知っている。女の巨人だった。彼女はとても美しかった。男なら誰もが振り返り、女なら誰もが羨ましがる見事な体躯の持ち主だった。経済的にも恵まれていた。広く大きな家に住み、彼女は何一つ不自由していなかった。しかし、そんな彼女は狂騒としか言い表せないような毎日を送っていた。酒を飲みに夜の繁華街に行かない夜は無かった。彼女の飲酒は度を越していた。明け方道端でうずくまるまで彼女は止まらない。それでいて酔っても彼女は素面のときと殆ど変わらないのだった。彼女は普段から酔っていた。酔わずにはいられなかったのだ。真夜中でも平気で電話が掛かってきた。それでいて絶対に自分からの電話には出なかった。彼女はよく気紛れに旅に出た。彼女は海が好きだった。彼女からはいつも乾いた海の香りがしていた。ベディ・ブルーが大好きだった。ベティのように凶暴で情熱的だった。檻に入れられた野獣のように街の中を駆け回っていた。その視線は常に点々と激しく彷徨って決して止まる事が無かった。男はめまぐるしく変わった。それでいていつも彼女は真剣だった。生命の全てを投げ出していた。情熱そのものだった。しかし同時に酷く疲れて倦んでいた。恐ろしい程までに暗い影がその目元に差していて、老女のように見える事もあった。
 彼女は祭りが大好きだった。丁度この八月頃、祭りの日を迎えると早朝から彼女はそわそわして落ち着かなかった。何着も持っている浴衣をとっかえひっかえ着直している。その瞳はきらきらとまるで遠足の前の晩を迎えた子供だった。しかし段々と夜が近付くにつれて彼女は元気がなくなっていった。顔は血の気を失って蒼褪めていき、窓際で膝を抱えて殆ど動かなくなった。私が心配して声を掛けてもまるで反応しなかった。そうしているうちにとうとう夜になった。窓の外から祭りの賑やかな音が聞こえ始める。段々と大きくなるその音とともに子供たちの歓声も聞こえ始めた。しかし彼女は未だ窓際に座ったままだった。大きな花火の音も聞こえ始めて、それが打ち上がる度に部屋が揺れた。しかし花火はその窓からは見えなかった。祭りは佳境を迎えていた。
 祭りは終わった。祭りから帰る人々の足音さえも聞こえなくなった。とても静かな夏の夜。彼女はまだ窓の外を見ていた。すっかりと真っ暗になった夜空と高いビルしか見えない窓の外を見ていた。私はもう声を掛ける事が出来なかった。声を掛ける相手が居なかった。蒼白く生気を喪った横顔、視線の彼方にある夜よりも更に暗い色をした瞳、力なく浴衣の上に落ちている片方の手、私の目の前に座るそれはまるで人形だった。