芸術と教育論

 教育というものが人間を人形にする為の機関であると先日ここに書いた。それに対して逆に人形を人間に戻す機関というものが存在する。それが芸術である。音楽であれ、絵画であれ、文学であれ、その芸術作品と接している時間、彼は衣装を脱がされ裸の元の姿に、つまりは人形の状態から人間の状態に戻る事が出来る。大人から少年へと戻る事が出来る。芸術とは魔法なのだ。だからもし仮に彼がその作品に触れても尚衣装を着て相変わらず人形のままでいるならば彼が接しているもの、それは不完全な魔法であり、芸術とは呼べないのである。人形を人間に戻す芸術の魔法の力、言い換えるならそれは美の力そのものであり、美しいものだけが一体の人形を一人の人間へと揺り戻す。
 教育者は人形を造り出す。芸術家は人間を創り出す。本質的にこの両者は決して相容れる事の出来ない敵対者である。警察官と泥棒の関係、それと同じように教育者と芸術家は絶対に永久に和解する事が出来ない。しかしながらこの両者はとかく混同され、また両者が癒着関係にある事も多々ある。教育界に存在する個性の尊重、情操教育といった観念がまさにその状態を良く象徴していて、彼らがそうした観念の下に何をやっているかといえばそれは人形の色や形ヴァリエーションを増やす事であり、或いは限りなく本物の人間に近いリアルな人形を造り出しているのに過ぎない。そうする事で教育者たちは自らが無機質な人形ではなく生きた人間を創り出しているのだという事を強調し、また自らもそう錯覚してしまう。本来なら教育者たちの敵である芸術の方法さえも取り込んでしまう事によって彼等が信奉する教育という概念はより強固盤石になり、鉄筋コンクリート製の校舎は殆ど絶対的ともいえる強度を獲得するのだ。しかし、その教育に対する絶対に揺るぎの無い信念、学校の校舎の絶対に壊れない頑丈さこそが一人の少年を死に追いやる。
 一方、芸術家とは本来人形を造り出す教育者たちと徹底的に戦わなければならないのであるが、現代に於いてはその芸術家の多くが教育者に対して戦うどころかむしろ積極的に彼らの人形造りに加担している。では一体彼等は具体的に何をやっているのか。それは学校の校舎の外に於ける教育である。子供たちの部屋の中に於ける教育である。彼等似非芸術家たちは親や教育者たちの手や目の届かない所での人形造りを社会に委任されているのだ。
 金と名声を得る、その為に似非芸術家たちは彼等の敵である教育界に対して芸術家の魂を売ってしまう。実際、教育機関の主たる社会は人形を造る者に対する金と名声の授与を少しも惜しむ事が無い。しかしながら似非芸術家、彼等の多くはもっと良心的だろう。彼等は自分たちの創造する作品によって人形が人間に戻ると錯覚している。その構造は教育者の錯覚と同じだ。しかし彼等の作品を摂取しても人形は決して人間になど戻らない。まるで変化しないか、また別種の人形へと変形するだけである。もし仮に本当に一体の人形を一人の人間に戻してしまうような作品を彼が創造していたら教育者及び社会はそれを推奨支援するどころか逆に攻撃し抹殺しようと企てるだろう。「青少年に悪影響を及ぼします」学校の校舎に罅を入れてぶっ壊し、本当の人間を創り出す真の芸術家に対して社会は決してその攻撃の手を緩めたりしないのだ。
 どちらにせよ、似非芸術家たちは教育に加担している。彼等の人形造りに加担している。彼等の学校校舎の補修修繕に加担している。一人の少年を殺害する事に加担している。なぜ、少年は死んだか?それは他に逃げ場が無かったからだ。絶対に正しい教育と絶対に壊れない校舎がそこにあったからだ。似非芸術家たちが「学校なんて取るに足らない何でもないものだ」そう言って教育というものを完全否定しなかったからだ。似非芸術家たちが校舎を破壊してそこに一つの窓を造らなかったからだ。その窓の中から見える人間の無限の可能性や無際限な世界の美しさをその少年に見せてあげなかったからだ。私はそんな少年に対する卑劣な殺害行為にはもう少しも加担したくない。だから私は徹底的に教育というものを否定する。だから私は徹底的にこの社会そのものを否定する。私は少年を裏切りたくはない。少年は私の中でまだ息をしている。私は太陽を愛しているのだ。私はその太陽の瞳に向かって窓を創り続ける。
 私は教育を否定する。教育が社会に隷属し迎合している限り否定する。私はこの社会を否定する。私が受け入れる事が出来るのは反社会的教育、或いは超社会的教育といったものに限られる。それはこの社会に抗い、この社会と徹底的に戦う教育の事である。そんなものは有り得ないと言うだろう。そんなものは確かに想像し難い事だ。しかし私は一人の教師の姿を思い浮かべる。それは古代ギリシャの哲学者ソクラテスである。
 ソクラテス、彼は紛れも無く教師であった。しかし、ソクラテスは決して人形を造ろうとしたのではなかった。むしろ人形しか造り出さない教師たち及び当時のアテネ社会全体を非難し攻撃した。無知の知を自覚したソクラテスは知ったかぶって人間や世界を既成概念の内側に閉じ込めてしまう教育の在り方そのものを正そうとしたのだ。彼は芸術家だったのだ。いや、芸術そのものだった。ソクラテスは何一つ書き残さなかった。何も難しい事はそこに存在しない。プラトンを始め多くの若い弟子たちは七十歳老いて尚激しく燃えているソクラテスの情熱そのものに耳を傾けたのだ。しかし同時に彼は社会の敵だった。本当の人間を創り出そうとした彼は人形師たちの敵であった。結果は言うまでも無い。「青少年に悪影響を及ぼします」ソクラテスは社会によって殺害されてしまった。
 ソクラテス、彼の姿勢は永久的に教師たちのの模範である。また同時に芸術家たちの模範である。それは人間教育だった。情熱教育だった。人間が人間に対して、生命が生命に対して渡し与える事が出来るものは身体から溢れ出すこの赤い炎の熱、それ以外に無いのではあるまいか?

 

 太陽のまなざし

 この季節は他のどんな時期よりも君の視線を感じる。
 昼間は勿論の事、
 真夜中だって君の熱い眼差しが
 僕の部屋中を充たしている。
 僕はエアコンが嫌いさ。
 だって君の視線を感じる事が出来なくなるから。
 扇風機は使っているけどね。

 僕はずっと君の事を待っていたんだ。
 冬の間はいつも恐ろしく熱いお風呂に入って
 遠くなってしまった君の事を思い出していたし
 部屋の外にある階段の白い壁には
 ゴッホの黄色いひまわりの絵を飾って
 やっぱり遠くなってしまった君の事を思い出していた。
 勿論、冬の間も君は空の上に輝いていた。
 でもその光だけでは君の視線を感じる事が出来ない程に
 僕の意識は君のもとから遠く堕ちてしまったんだ。

 今日も僕は沢山と君の視線を浴びた。
 頬や腕に君の視線の跡がひりひりと痛い。
 僕はこの痛みを愛している。
 僕はこの痛みだけを愛している。
 他の痛みは全部まやかしだ。
 君の視線だけが僕に本当の傷跡を付ける事が出来る。
 勿論、夥しい人々と擦れ違う街の中では
 夥しい視線が僕を突き刺して、僕はその度に痛かった。
 でも、そんな痛みはもう残っていない。
 君の視線が齎した熱くひりひりとした痛みが
 他の痛みを全部綺麗さっぱり打ち消してしまった。
 君は僕の神様だ。
 神様の視線だけが僕に本当の傷跡を付ける事が出来る。
 
 ああ、夜が来てしまった。
 でも僕は少しも不安じゃない。
 だって君の視線に包まれているから。
 琥珀色の甘い蜜のような君の視線に包まれて
 僕の夜は今少しも暗くなんかない。
 真っ白なベッドの上に横たわりながら
 ひりひり痛む頬と腕をくっつけて
 僕は幸福に瞳を閉じている。
 明日はもっといっぱい君の視線を浴びたい。
 明日はもっといっぱい君に傷付けられたい。
 君は僕の神様だ。
 神様の視線だけが僕を本当に壊してくれる。
 神様の視線だけが僕を本当の僕に戻してくれる。