石への信仰

 言葉というものに対する態度姿勢がその人間延いてはその民族の性格性質及びあらゆるものに対する方向性を決定付けるという考えが私の中で定説となりつつある。試しに日本人と西洋人を比較してみるとそれは明白だ。西洋人は言葉というものを全然信用していない。歴史的に彼等の文化文明の根幹を成してきたイエス・キリストの言葉。最も神聖なその言葉を彼等は十字架なしに信じる事が出来なかった。つまり現実にイエスが十字架の上で赤い血を流し死に絶え、そこからまた現実に肉体を持って復活するという客観的な現実、目に見える形の奇跡に接しなければ神の言葉を信じられなかったのである。もっと遡れば彼らはモーゼが海を二つに割らなければ彼の言葉を信じる事が出来なかったのであるし、後にも聖人が聖人として認定される為には彼が現実に於いて奇跡を行ったという形跡が必要だった。つまり彼ら西洋人は目に見える奇跡、現実に対して影響を行使し乃至行使し得る言葉のみしか信じなかったのである。彼らが本当に信じていたのはその目の前に歴然と見えて揺ぎ無く存在している石だった。その石を割れない言葉は無用。しかし彼等の言葉、精神、神を証明する為には石を割る必要があり、だからその石そのものを研究に熱を上げた。科学の精神。更にはその石をただ割るだけではなくて、彼等の言葉の形にその石を加工、彫り刻む、つまりは彼等の言葉をそのまま現実の上に石として顕現させようとした彼等の芸術。石、言い換えるなら、それは永久不変の現実だ。西洋人、彼等は永遠、永遠に続く自分たちの未来を信仰した。根っこからの進歩主義。ポジティブ。彼等の時間は常に前へと進んでいる。時間を前へと運ぶ事の出来ない言葉はやはり彼等に不要なのだ。科学の精神とリアリズムの芸術、更には進歩主義、これだけを見ても彼等西洋人がこの現実、石の世界で無敵の覇者となったという事も頷ける。それは彼等が石というものを信仰し始めたときから内包されていた彼等の未来だったのである。