奇蹟ということ

 

 十字架上の苦しみのさいごの刹那に見捨てられること、どちら側にも、なんという愛の深淵があることだろう。

             ーーシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵」より

 

 或いは反対に彼の絶対孤独を証明するために彼は目の前にある石を割ろうとするかもしれない。私と目の前に横たわっている石、私と他者つまり私と現実の間には如何なる関係も、蜘蛛の糸ほどの僅かな繋がりもないという事実を証明するためにである。この世界宇宙全体から完全に切り離され孤立して存在している私、この現実から如何なる影響も受けることのない一個の独立した自由意志、私の魂が存在しているということを証明するためにである。他者である石に私の意思が伝わり、私の念力で石が割れる現象を人は奇蹟だと言う。私の祈祷で丘に南風が吹き、空から恵みの雨が降り、紺碧の大洋が二つに割れる。それを奇蹟だと言う。しかし南風が吹かず、恵みの雨が降らず、大洋が二つに割れることがない。私の意思が他者である現実へと通じることは決してない。その事実の方こそが奇蹟ではないだろうか。いったい何故、私の意思は風や空や海、現実へと通じないのだろうか。それは私という存在が現実にとって他者であり、現実というものが私にとって他者であるからである。また同時にそれは私が他者という現実から完全に切り離され独立して存在していることの証、私の絶対孤独、私の魂の証である。私は非現実であり、現実は非私である。つまり私は魂である。そのことこそ不思議であり奇蹟ではないだろうか。魂の世界がこの現実とは別に存在しているという奇蹟。しかしその奇蹟、私という魂の実在を証明するためには血の汗を流して他者である現実と私を結び付けようと藻掻き足掻かなくてはならない。ただ単純素朴に石を割るだけではだめなのだ。そんな軽い祈りではだめなのだ。死力を尽くして全身全霊、生命を賭けて私をその目の前の石へと刻み込まなければならない。来る日も来る日も。やがて精も根も尽き果てよう。しかしそのようにしてもなお結局のところその目の前の石に対して私が刻まれることはない。絶望的に。風は吹かず、恵みの雨は降らず、大洋が割れることはない。神の沈黙。しかしそのときこそ、ただその不可能の境界に於いてのみ私は絶対の他者と私が疑いようもなく存在しているというただひとつの奇蹟を目の当たりにすることになるのだ。太陽になることが出来なかったひまわりとして。絶望的に。苦痛に焼かれ喘ぎ滅びながら。

 

 安里は自分がいつ信仰を失ったか、思い出すことができない。ただ、今もありありと思い出すのは、いくら祈っても分れなかった夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して分れようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議‥‥‥。

                  ーー三島由紀夫「海と夕焼」より