石を割るということ

 目の前に一個の石が落ちている。私はその石ではなく、その石も私ではない。私がどんなに割れろと念じても決してその石は割れない。私の意思はその石に通じない。それはその石が私にとって他者であるからだ。

 とはいえ私がその石を掴み取り、何度も何度も他の石や固い地面へと投げつけ或いは打ち続けたとしたらいずれその石は割れるだろう。そうして私の意思がその石に通じる。その石に私が刻み込まれたのである。その石は私になった。少なくとも私はそう思う。しかし割れて虚しく横たわる石をまたしばらく眺めているうちに私の酔いは醒めていく。やはり私とその石には何の関係性もなく、私は私で、その石はその石なのだ。やるせない気持ちになって私は天を仰ぐ。しかしそこにもまた私の意思とは何の関係もない空が浮かんでいる。手すら届かない。叫ぶ声も届かない。石よりも遥かに私と他者である空がそこにはある。言い知れぬ虚しさや孤独を感じ私は目を瞑る。眠ろう。私と何の関係もない、この虚無そのものである現実から逃げよう。

 しかし眠れない。眠ろうとすればするほど眠ることが出来ない。結局、しばらくして私は目を開く。また吸い寄せられるように。私はその割れた石の片方を手に取る。私はまた更に細かく、今度は出来上がる形を明確に意識してその石を割り始める。もっと深く私をその石へ刻み込みたい。もっと強い私と石との関係を築き上げたい。その石を私にしたい。私をその石にしたい。私と石をひとつにしたい。私を現実に刻み込み、顕現させたい。私は存在したい。私は生きたい。こうして一個の彫像が出来上がる。その原動力は私がその石、現実と完全に他者であるという虚しさと孤独、その実感だ。私は一個の魂はこの世界、現実と全く何の関係もなく存在している。つまり実存していない。死んでいる。だからこそ私は一個の魂はこの世界、現実に実存しようと石を割る。飽きることなく生きようとするのだ。