観念の思考と野性の思考

 ものを書く人には二種類居て、それは知っている物事を書こうとする人と物事を知る為に書こうとする人である。前者は頭の中で既に完了している思考をただ紙の上に書き写すだけである。一方、後者はというと書き始める段階では何も無い。真っ白だ。それは言い過ぎた。イメージくらいはあるだろう。しかしそれは蜃気楼の靄のように酷く曖昧なものだ。書こうとする段階で彼の思考は完了していない。あくまでも彼は書いて考える人。もっと言ってしまえば彼にとって書く事と考える事は同じことなのである。
 私はというと絶望的に後者の方である。私は頭で考える事が出来ない。絶望的に出来ない。かつてハシビロコウというあだ名が付いていた程に平素の私は朦朧としている。かと思うと押し止める事の出来ない欲望や感情に流され翻弄されている。一匹の猫を思い浮かべるが良い。あれこそが私だ。猫は思考する事が出来ない。彼には欲望と感覚しかない。しかし神様はそんな猫である私に一本の鉛筆を与えて下さった。ついでに原稿用紙もくれた。すると。おお、何だこれは!私は考えている。猫のくせに私は考えている。しかし忘れてはならない。ここに書き記されているのは猫の思考だ。人間とは頭で考えるものである。これは頭で考えられた文章ではない。鉛筆を握り込む私の右手と右腕、更には二つの瞳、及び全身の感覚によって書かれた文章である。本物の猫もそうなのではあるまいか。彼や彼女はその小さな頭の中で考えているのではなく、目や耳、鼻や髭や舌、全身に張り巡らされた繊細で敏感な触覚、その肉体を以って思考しているのだ。
 猫はその感覚で捉えられるもの、具体物を使ってしか思考する事が出来ない。そんな彼の感覚から滑り抜けていくもの、それは即ち非感覚的なもの、つまりは観念である。
 猫には観念がない。私には観念がない。観念を理解する事の出来ない私は当然観念の言葉を理解する事が出来ない。私が理解する事が出来るのは非観念的な言葉、つまりは自分の五感と六感を通して感知できる言葉に限られる。言い換えるならばそれは野性の言葉であり、詩の言葉であり、赤い血で書かれた聖なる言葉である。それ以外の言葉は私を素通りしていく。大きな欠伸をして私はその紙の上にまるくなるだろう。きっとそのまま眠ってしまう事だろう。
 眠くなるかならないか、しかしこれは観念の言葉と野性の言葉とを見分ける重大な基準である。もし仮にそれが野性の言葉ならばそれを目の前にして彼はどうして眠る事が出来ようか。自分を引き裂き噛み殺す獰猛な白い牙、その絶対的な脅威、敵を目の前にしていながらどうして眠る事が出来ようか。
 一方、観念の言葉で思考する人間、即ち頭で考える彼はなぜ観念という非具体的、非実在的対象、つまりは決して見る事も触れる事も出来ないものを前にして眠気を催す事がないのだろうか。それは彼にとって観念というものが非具体的なものでも非実在的なものでもないからだ。彼にとって観念は具体的であり実在的である。彼はまるで本物の林檎を見るように観念を見、本物の林檎に触れるように観念を触る。三島由紀夫の日記に書かれていた事だが、スタンダールは自分の精神の具体的な形態を思い描く事が出来たそうである。スタンダールが頭で考える人間であったかどうかは知らないが、頭で考える人間とはそういうものだ。彼にとっては想像の林檎も現実の林檎も全く同じものなのである。猫が素通りする観念、それを具体物として感知出来る感覚器官が彼にはあるのだ。だから彼は観念を前にしても眠くなる事がない。更にはその観念が強力であり強大であればある程、その観念は彼にとって重大さを増す、つまり自分自身を打ち砕く敵として認識する事になる。敵を前にして眠る事が出来なくなるのは猫がその敵を前にして眠る事が出来ないのと同じである。
 頭で考える人間、彼にとって観念の言葉は確かな実在の木片である。そのはっきりとした形を見、またしっかりとした手応えを感じながら彼はその木片を組み合わせ積み上げていく。観念の思考とはそういうものである。もはや彼が考える為にペンや紙は必要ない。そんな具体的行為が無くても確かな実感及び抵抗を以って彼は彼の思考をぐいぐいと押し進めていく事が出来るのだ。
 しかし、頭で考える人間、彼にも弱点はある。確かに彼は観念を具体物として緻密に組み立て且つそれを壮大に押し広げて観念の一大建築物を造る事が出来るだろう。しかしその観念から零れ落ちていくもの、つまり非観念的な実存、生の現実を感じ取る野性の感覚が彼には欠落している。少しはあるだろう。彼も一応動物の仲間だ。だが彼が観念の思考を繰り返し、彼の中で観念が具体化していけばいく程、反対に彼は実際の現実が現実として感じ取れなくなっていく。そうしていつしか観念の林檎と現実の林檎が彼の中で逆転してしまう。彼は猫を素通りしていく。
 観念の思考をする人間、彼は野性の思考に関しては脆弱である。そんな彼が書き記すものは当然現実性に乏しい。私のような猫はその上で欠伸しまるくなるしかない。私にはそれが見えない。私には彼が見えない。猫には本当に在るものしか見えないのだ。