血と汗の言葉

 社会的な地位と思考の関係。往々にして、その人間の社会的な地位が高まる度合いに比例して彼の思考に占める観念の領域は拡大し、反対に野生の領域は減退する。雲を突く高層ビルの頂きで高級な革張りの社長椅子にふんぞり返っている彼は観念的思考の持ち主であり、野性的思考は彼に殆ど失われている。反対に貧民街の崩れかけたアパートで暮らし、ほんの僅かな金を稼ぐために日々一日中汗を流し地べたを這いつくばっている彼は野性的思考の持ち主であり、観念的思考は彼に殆ど失われている。人間は空へと近付く程に観念と化し、人間は地に近付く程に野性と化するのだ。よく言われる政治家と庶民、或いは経営者と労働者の間に横たわる意識のずれ、乖離はこの観念的思考と野性的思考の埋め難い距離によって生じている。
 武士道。なぜそれが生まれたのか。江戸時代、その永きに渡る泰平によって支配階級であり知識階級でもあった武士たちの思考に於ける観念の領域は著しく拡大していった。反対に思考に於ける野性は失われていった。武士道の発生はその野性喪失に対する武士自身の危機感であり反動である。彼等は常に死を枕元に置き、且つ剣の道に象徴されるような厳しい肉体の自己鍛錬によって彼等に死んでしまった野性的思考を取り戻そうとした。そうする事で現に今も野性的思考の持ち主であり、紛れも無い生の現実の中を必死に汗を流し生きている被支配階級者、農民たちとの意識のずれ、乖離を埋めようとした。その結果が成功したかはさておき、武士道というものの理想はそこにこそあったはずだ。支配者と被支配者に於ける意識の亀裂、それが推し進む事は圧政を生み出す要因となり、更にそれを放置し続ければその社会自体の崩壊へと繋がってしまうのだ。西洋に於ける騎士道の精神、更には近代に於いて発生したダンディズムという男性の様式美も同じような危機感から発生したのではなかろうか。現代に於いても比較的感が鋭く賢明な経営者はジムに通ったりランニングをしたりと肉体的な自己鍛錬によって野性的思考を奪還維持し、汗を流している労働者たちとの意識の繋がりが断絶する事のないよう努力しているだろう。ヒアリング?意見調査?それでは不十分である。血と汗を流している者の意識を理解する為には自らも同じ様に血と汗を流さねばならない。血と汗、それは翻訳する事が不可能な一つの言語なのである。