漫画のリアリズム

 現代の我が国の言論界に於いて明治の暁以来権勢と猛威を振るっていた蒼白きインテリ、つまりは観念的思考の持ち主はすっかりとその姿を消した。小説に於いても純文学は滅びたと言われる。しかしそれは当然の帰結で、野性的思考を喪失し、青臭く独りよがりで無味乾燥な観念の遊戯と化した文学に生の現実を生きる大衆が見向きもしなくなるのは当たり前の事である。小説家の三島由紀夫ドナルド・キーンに宛てた手紙の中には「最近の小説は詰まらないので自分は漫画ばかり読んでいる」と書かれている。小説という媒体はその野性を漫画に奪取吸収されていってしまった。言い換えれば行動と冒険の領域を小説は漫画の主人公に取られてしまったのである。
 漫画というものは絵と文字によって構成されている。絵がある事が小説との決定的な差異である。その漫画家の画力にもよるが、漫画はその絵がある事によってある程度以上の現実性と具体性が保証されている。文字の読めない子供は小説の本などには見向きもしない。しかし絵本や漫画ならば例えそこに書いてある文字が読めなくとも子供は興味を示す。それは絵というものが例えばその隣に置かれている本物の林檎と同じ様な強度を以ってそこにものとして存在しているという現実性や具体性を保持しているからである。だからそんな絵というものを使用する事の出来る漫画に於いては先程述べたようにある程度以上の現実性と具体性があらかじめ確保されているが為に、その内容についてはそれ程現実性や具体性を気にする事無く、比較的自由に創作していく事が出来る。例えば一つ目の化け物が出て来ても構わないし、空を飛び回る人間が出て来ても構わない。或いは未知の能力を持った小学生が地球と全宇宙を救う事だって可能だ。そんな漫画の物語の内容に対してその読者たちは寛容である。それはどんな荒唐無稽で支離滅裂で非現実的な内容であったとしてもその現実性と具体性を絵が保証しているからである。俗に言う絵の説得力というものだ。ただ余りにも彼の絵が稚拙な場合、つまりは現実性と具体性を欠いている場合、その絵の説得力だけでは物語の現実性を保証する事が出来ない。その場合、彼は絵の技術を磨くか、或いは稚拙な絵はそのままに物語の内容に対するリアリティの強度を上げていかねばならないだろう。
 例えば、漫画家の始祖ともいえる手塚治虫の場合、彼はその絵を記号と割り切り、劇画に象徴されるようなリアリティのある絵を敢えて使用ない事によって、つまりは絵の説得力を極力使用しない事により、必然的に内容物、登場する人物や物語のリアリティを追及せざる負えない状況に自らを追い込んでいったのではないかと推測する。その結果としてジャングル大帝のレオのように大自然の中を生き生きと動き回るキャラクターとその物語を膨大に作り出す事に彼は成功した。もし仮に手塚がその絵に対して現実性と具体性を追求していたとしたら、登場人物や物語にそれ程のリアリティも活発性も、つまりは作品に生命は宿らなかった事だろう。その場合、物語と内容の必然性があらかじめ説得力のある絵によって奪われてしまっているからである。
 反対に言うと、絵に説得力のある漫画家はむしろ却って絵の説得力に甘んじて物語及び内容自体の説得力が疎かになる、そんな危機に絶えず見舞われている。画力は人並み以上とあるのに内容は空疎でちっとも面白くないという漫画が多く見られるのはこの為である。更にアニメーションともなるとそこに実際の動きや声、効果音、音楽なども加わり、そこにあるものとしての説得力は漫画とは比較出来ない程に向上する。しかしこれも物語と内容以外の説得力が上がった分だけ、物語及び内容に対するリアリズムの要求度は下がり、内容としては説得力に欠ける、つまり物ではあるものの生命の通わない作り物に堕する危機も漫画とは比較できない程に大きくなってしまうのだ。
 とはいえ、絵や音の説得力にそこにあるものとしての最低限のリアリティを保証されている漫画やアニメという表現媒体ほど、制作者側にとって自由に想像力を広げて物語を作る事の出来る環境は他に見当たらない。そこには自然主義以来、表層のリアリズムに囚われ過ぎて小説が見失った行動と冒険の領域が未だに健在である。三島由紀夫がもし絵を描けたならば漫画家になって今もその漫画を描き続けていたかもしれない。