七月十五日の日記「毛皮を着たヴィーナスの構成」

 小説毛皮を着たヴィーナスはマゾヒズムの願望を密かに抱く主人公が同じ性癖を持つ友人ゼヴェリーンから彼のめくるめく体験を綴った体験記を見せて貰い、奴隷と残酷な女主人の物語はこの体験記に沿って進行していく。毛皮を着たヴィーナスの女主人様に裸で跪き尻を鞭打たれるのは主人公ではなく友人ゼヴェリーンなのだ。
 マゾッホはなぜ当初から素直にこの友人ゼヴェリーンを主人公にしなかったのだろうか。そうした方が至極自然に自らの心を熱望する奴隷の役へと投影出来たはずだ。成る程、余りにも自然過ぎたのかもしれない。作者の願望と主人公の願望が密接に結び付き過ぎていて、それが単なる秘密の性癖、趣味の告白に堕する危険性がある。小説という体裁を取る以上、そんな自己満足と破綻を免れる為には直截的に主人公を動かすよりも友人の体験記というワンクッションを置いて(それはもう既に終わった事でもある)ある程度の冷静さと客観性を保全した方が良いと判断したのだろう。
 或いはここに於いても彼のマゾヒズムが発揮されたという見方も出来る。マゾッホの意識はやはり本物の主人公の方に投影されていて、その自分自身が切実に待ち恋焦がれる毛皮を着たヴィーナス、彼女に支配され虐待を受けるという目も眩む苦痛と苦悩の体験を第三者である友人から包み隠さず生々しく聞かされるという耐え難い苦痛と苦悩を彼は享受したかったのかもしれない。実際、現実の私生活に於いても彼マゾッホは自分の愛する妻を他人に貸し出しているのだ。
 自らの名前と全精神を捧げ、財産と社会的地位を捧げ、血と涙と精液を一滴残らず捧げ、肉と骨、自分の命さえも崇拝する女王様に捧げ切った奴隷にとって彼に残された衣装は女王様の奴隷という身分だけである。その女王様から捨てられるという事は最後に纏っていた衣装を剥がされるという事で、そのとき彼は本当の意味で裸にされるのだ。
 本作と同様にマゾヒズムの主題を女性側の視点で更に苛烈に扱った小説にO嬢の物語があるが、批評家ジャン・ポーランが寄せているその序文の中に或る奴隷たちの反乱についての記述がある。それは要約すると、とある貴族が居て、彼は当時隆盛を極めていた奴隷解放運動の影響を受けて自分の所有している奴隷たちを一斉に解放したのだが、奇妙な事に解放された奴隷たちはその解放に抗議してまた元の主従と奴隷の関係に戻して欲しいと元主人であるその貴族に懇願したという話であり、つまりは奴隷たちの解放に対する反乱である。結局、その貴族は元奴隷たちの願いを聞き入れず、元奴隷たちによって殺害される。
 かの奴隷たちにとっても絶対の主人であったその貴族は何も持たない彼等に残されている最後の衣装であって、その最後の衣装を剥ぎ取られ、全くの裸にされることを彼等は恐れた。ゼヴェリーンも同じに絶対の女主人に捨てられて、神無き荒野を彼は全くの裸で生きていかねばならなくなった。しかしながらそれこそゼヴェリーンが感じたかった観念の檻の外側の世界、紛れもない生の現実なのだ(彼は体験記を読み終えた友人に「自分は健康を手に入れた」と言っている)。

(しかし人はこの自由な荒野の寒さに耐えることが出来ない。再び衣装を観念の檻を絶対の主人を求め始める。本当の神=死から目を背けるために偽りの救いと罰の神を造り上げる。)