ものを書くという事

 早朝は小雨が降っていたが、陽が昇り切る頃には止んだ。しかしまた曇天から細かい雨が降り始めている。
 昼前、私は灰色の高層ビルとビルの合い間にある小さな公園で昼食を食べていた。プラスチックな光沢を放つ人工の芝が敷き詰められ、そこに数か所冷たい石のベンチが置かれているだけの人影も無い寂しい公園。ただ私の座ろうとしているベンチの背後には花壇があって煉瓦の石に四角く囲われているその内側、整然と一列に植えられた青いサルビアの花に雨の名残りが冷たくきらきらと光っていた。
 ものを書くという事はサディスティックな行為だ。その対象が人間であれ自然であれ、それは天衣無縫に緑の草原を飛び回る虹色の蝶を虫網で捕らえ、白いノートの紙の上に鋭いピンを突き刺して殺してしまうようなものである。
 言葉の世界だけに限らない。絵画であれ写真であれ映像であれ、記録に残すという事は一つの枠に嵌め込む事であり、無機的な観念の衣装で包み込んでしまう事である。枠からはみ出すもの、観念の衣装からはみ出してしまうもの、血や肉、呼吸、感情、有機的なものは全て切り捨てられてしまう。しかしそれこそ対象が持つ生命そのものなのであり、芸術家が描きたいのもそれなのだ。矛盾している不可能な夢。
 自分の事を話したがる人、彼は自分というものが良く分からず不可解で不安なのだ。だからそんな訳の分からない自分を言葉で捕らえて殺すのだ。ゴッホは何枚も自画像を描いた。彼もまた自分を確かめたかったのだ。私の中にいる他者を太陽の光の下へと照らし出して見たかったのだ。
 マゾヒストは常に自殺と自壊の危機に瀕している。彼は裸になりたいのだ。しかし、裸になる為には黒い死の太陽の暴力的なその光と熱にその身を晒さねばならない。それ程彼の観念の衣装は分厚いのだ。彼が本当に自殺しない為には紙の上で自殺する事が必要である。或る闇の深い晩、その自殺は完遂されるだろう。彼は歓喜の絶頂に震えながら息絶える。しかし翌朝彼は当たり前のように目覚めるのだ。どうやら自殺は失敗したらしい。加えて彼の身体は裸どころか更に分厚くなった衣装に包まれている。耐え難い倦怠、自己嫌悪、絶望。しかしまた彼は書き始める、更なる苦悩と絶望へ向かって。それ意外に彼が生きていく術はないのだ。そして或る日、本当の紛れも無い夜が彼に訪れるのだ。
 これは彼の罪だろうか。違う、禁断の赤い果実に手を伸ばした人類そのものの罪なのだ。