七月八日の日記「正統のマゾヒズム」

 朝は7月とは思えない肌寒さ。土の中の蝉もきっと凍えていた事だろう。
 マゾッホの毛皮を着たヴィーナスを読みながらマゾヒズムについて考える。
 マゾヒズムという概念にも正統と異端があって、正統なマゾヒズムというのは当然の事ながらマゾヒズムという言葉の語源にもなったこのマゾッホの系譜に連なるマゾヒズムの事である。ではその正統なマゾヒズムとは一体何なのかというと、高度に観念的な人間が彼という存在の大部分を形作る自分という言葉とほぼ同義語であるその観念を暴虐と恥辱の嵐の中で叩き壊されたい、つまりは鼻の高い高慢な顔付きをした女王様の豊満なお尻の下にその蒼白い顔を丸ごと圧し潰されたいというインテリの願望である。
 観念とは衣装である。それ故、その知性が高まっていく度合いに合わせて彼はその衣装を分厚く重ね着していくことになり、同時に彼は生の現実からは遠ざかっていく。それはつまり生きているという実感が持てなくなっていくという事である。ならばその分厚い衣装を脱げば良いと人は言うかもしれない。しかし何年も何十年もずっと彼の肌と密着してきたこの衣装は彼の肌と癒着し引き剥がす事が出来ないのである。更に言えば何処からが衣装で何処からが彼自身の肌なのか、もはや彼自身には分からないという有り様なのだ。 そんな彼が裸になって生の現実に触れる数少ない方法の一つ、それこそ他者に自分の衣装を引き剥がされて生の現実に触れられる、つまりは彼自身がマゾヒストになるということなのだ。
 ここで注意しなければならないのはマゾヒストに暴虐を加える主人についてである。当然ながら主人は高度に観念的な人間であってはならない。なぜならせっかく衣装を剥がされ裸になっても、他の誰かの衣装に触れられては元も子もないからである。マゾヒストの主人は知性や精神と懸け離れた人間、つまりは生の現実を体現している悪そのものような人間でなくてはならないのだ。
 以上が私の考える正統的マゾヒストの概念である。異端的マゾヒストについては明日書くとしよう。