2020-11-01から1ヶ月間の記事一覧

形ないものを形あるものによって探る。純粋認識の世界を認識の認識者「私」によって認識しようと試みる。その結果として誕生する形はその試みが成功するならばそれは単純な形ではなく、形なく且つ形あるもの、純粋認識と「私」の認識が一つとなった認識、太…

石(保存)の思想と炎(生命)の思想

「若きパルク」こんなに長い詩を読んだのは初めてでまず何より圧倒されたのはその構成の力である。パリのノートルダム大聖堂を目の前にして感嘆した高村光太郎のように、クラシックの音楽を初めて耳にした明治の人々のように、また沖に浮かぶ巨大な黒船を目…

今、万葉集に関する本を読んでいる。そこに集められた歌は驚くほど素朴で透明で、如何なる退廃とも無縁、悲しみや官能さえも清らかで健康的な力に溢れている。黄金の太陽に愛された人々。まさに人間の純粋な認識者たちだ。そこにはまだ作為や意図、人工への…

見られることは見ること

いいかね、彼らみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人たちがわれわれに教えるものこそ、真の宗教とも言えるものではないだろうか。 日本の芸術を研究すれば、誰でももっと陽気にもっと幸福にならずにはいられないはずだ。われわれ…

純粋認識。しかしたとえば植物は光を認識する。ということは光と非光を識別しているということであり、そのことから彼らも或る観点を通して世界を認識しているということがわかる。同時にその観点を持つ者が認識者だと言うことが出来る。その観点を持たない…

森はすっかりと冬の顔をしていた。降り積もった朽ち葉に寒々しい裸の木の枝、陰影が濃く粗い樹の肌ばかりが目立つ。わずかな風もなく鳥たちの鳴き声も聞こえない。朽ち葉を踏む靴の音が朽ち葉を踏む靴の音へと重なる。そこに汚れたものは何一つとしてなかっ…

芸術と非芸術

芸術作品と非芸術作品を峻別する双方の最も大きな決定的な違いはその物が何かの手段であるかないかの違いである。芸術作品はその物が目的或いは純粋な結果でありそれは決して何かの手段として創られたものではない。何かのために創られたまた存在しているな…

感受性が高いというのはその名の通りで、それは物事を感知感受する能力が高いということで、よく物が見えよく耳が聞こえる、ありのままの純粋な認識能力が高いということである。子供は皆純粋認識者だから感受性が高い。大人はその純粋認識を認識する「私」…

蜂が花を見る。彼は花を認識している。しかし彼は自分が花を認識したことには気が付いていない。認識を認識する主体が蜂にはない。人間が花を見る。彼は花を認識している。忽ち彼は自分が花を認識していることに気が付く。つまり彼は認識を認識している。す…

単純な認識とその認識に対する私の認識、それをまた更に認識する私の外の他者の認識。この私の外の他者の認識は単純な認識と認識に対する認識が違うということに気が付いたときから発生する。いわゆる無知の知である。無知を自覚するのは私ではなく私の外の…

単純な認識。その認識に対する認識。しかし思考、思考と呼ぶのに値する思考は認識に対する認識をまた更に認識する主体の認識だと言える。ヴァレリーの若きパルクの己を噛む蛇を見ている我の意識である。それは私の中の他者の認識でもなく私の認識でもなく私…

人が普通自分が認識していると思っているその認識は純粋なそのものに対する認識ではなくそのものに対する認識の認識である。木の下に眠る猫を見る。それは純粋な認識である。しかし木の下に眠る猫を見ていると彼自身が気が付き意識するその認識、それは認識…

認識について

動物の怯え警戒という状態と人間の不安の違い。動物は訪れる可能性のある脅威そのものを認識し警戒しているのに対し人間は脅威そのものよりもむしろ脅威に曝された際の自分の状態について脅威、不安を抱く。簡単に言うならば不安に対する不安である。それは…

神秘、それはこの夜ではなくこの夜が必ず明けて朝が来るということだ。それはまるでこの夜そのものの意志、虚無そのものの意志、物質そのものに意志があるかのようである。しかし実際この夜に意志はあるのだ。でなければ明日の朝はやって来ないだろう。永久…

ヴァレリーの和解

ヴァレリーの詩を読み始めた頃、この人は決して眠ることの出来ない人だったのではないかと、彼の微睡み睡眠への憧憬を直感的に感じ取ったのだが、その感想は今も変わることなくむしろそれは強化されて、ヴァレリーにとって詩こそ覚醒、目覚めの極点の後に訪…

ランボーの見つけた永遠、日の沈む夕焼けの海。しかし溶け合って一つになっていた太陽=認識する者と海=認識される者は豊穣な夜の沈黙を経てやがて来たる朝に再び分け隔てられる。時間が産声をあげる。認識する者と認識されるものと。時計がまわり始める。…

永遠とは永続する時間のことではない。永遠とは過去と未来、認識に対する認識によって生まれる「私」と時間、その虚妄のヴェールが取り払われたときに立ち現れてくる今このときの現実そのものである。過去も未来も失った(それから自由になった)人間は永遠…

服を脱がす思想

男性が抱く女性の裸への欲望。彼の女の服を脱がし一糸纏わぬ彼の女の姿、彼の女の秘密、真実を目にしたい。それは人間の男性の性欲の根幹を成す一つの要素だと思われ、実際男性もそのような欲望が自分自身にあると思い込んでいるが果たしてそうだろうか?女…

それをやりたいからやる。その第一回目は純粋行為だと言える。しかし、二回目以降は?それをやったら楽しい、快楽が得られる、だからやる、意味が発生してしまう。彼は未来に発生する利益のために奉仕し、だから未来が発生し、時間が生まれ、彼はそのなかに…

藤空に雪虫舞いし明けの庭蕾混じりに椿群れ咲く

ヴァレリー、特に海邊の墓地から感じられるのは彼の底知れぬ朗らかさ、明るい、生命力、火炎の力にみちている。ダヴィンチの手記を読んだときにも同じ朗らかさを感じた。陰惨な苦悩の影なんてそこにはない。そこには充実の仕事、永遠の少年の無償の飽きるこ…

生物と無生物を分け隔てているもの、それは認識である。ヒトや動物、生命を持ったものたちは視覚や聴覚、あらゆる器官によって何かを認識している。どんなに小さな微生物でもそれは変わらない。彼は何かを認識している。認識しているものが生物だ。何も認識…

勤行の時間

遊戯、完全なる遊戯は時計の外側にある。意味は勿論、如何なる結果もその間は求めることがない。だから不安もない。未来も過去もない。ただそこにあるのは光り燦く今この瞬間だけだ。 夏の終わり頃にポール・ヴァレリーの詩集を手に入れてから、その内の「若…

意味は未来に属する。意味を求めるということは未来への隷属である。そのとき彼は現在この瞬間の生を失い、時計の内側へと閉じ込められる。現在この瞬間の生は常にその時計の外側にある。生きるとはこの時計の外側へ脱出することである。それは瞬間でありま…

至高の瞬間、それはその瞬間のための瞬間であり、如何なる未来にも隷属しない純粋な行為の瞬間である。鳥は歌う。何のためでもない。何の意味を求めて或いは伝えるためでもない。歌うために歌うのである。思考も歌へと昇華したとき、その思考の持ち主はあの…

意味とは消費の証拠である。彼がそれを食べた証拠として彼から排泄される分泌物、それが意味である。意味を求め、消費することを訓練された人間は何を見てもそのものを消費し、何であれそれを一つの現実的な意味へと還元しなければ気が済まない。だから彼の…

教育によって子供たちはまず消費の訓練を受ける。事物を理解しそこに意味を真理を見出そうとする模範的な消費の態度の訓練。そこでは当然消費能力の高い者が表彰され推奨される。的確に素早く物事を理解出来る人間。消費能力と消費そのものが至上の価値とな…

科学精神とは或る対象の秘密を解き明かしていこうとするサディスティックな精神の態度であり、つまりその対象のことを正確に認識し消費していこうとする消費精神の態度である。近現代教育は真理を求めるその科学精神を基調としているので教育は自ずとサディ…

罠から抜ける

幼い頃、私はおっとりした子供で、今よりも遥かにゆっくりとしていて、だから私は優雅で上品で偉大で感受性豊かだった。しかしこの社会のめまぐるしさと長い時間付き合い、消費の快楽に骨の髄まで汚染され、私は慌ただしく落ち着きのない神経質な人間になっ…

阿片と消費

質を感じ取れなくなった人間はその不足を量で補おうとする。現代人が消費している物質や生命のかつてとは比較も不可能なその圧倒的な量の多さはそのまま彼らの質に対する感受性の劣化ほとんど死同然の没落を物語っている。速いということもまた量が多いとい…