今、万葉集に関する本を読んでいる。そこに集められた歌は驚くほど素朴で透明で、如何なる退廃とも無縁、悲しみや官能さえも清らかで健康的な力に溢れている。黄金の太陽に愛された人々。まさに人間の純粋な認識者たちだ。そこにはまだ作為や意図、人工への意志など少しも見受けられない。芸術へと堕落していない。歌のひとつひとつが晴朗な川の流れへ落ちた若葉の一枚のように大自然に溶け込んで何ら違和感のない感情、いやむしろ大自然そのものの純粋認識、鳥の歌や花々の輝きでそのものである。

 一方、ヴァレリーの詩「若きパルク」はそんな柔らかい風や透き通った光そのものである万葉の歌とは完全に対極にある。それは少しも脆弱な所なく、盤石な揺るぎのない意志、まさに言葉の石、大理石や宝石で築き上げられた荘厳な大聖堂だと言える。それはまた壮大で厳密なクラシックの音楽、たとえばバッハの組曲のように歴然とそこに聳え立っている。僅かな不安も感じさせず物としての実在を明確に確信させてくれる構成力の完全さがある。しかしかと言ってそこには作者の意図や作為のいやらしい跡、冷たい繋ぎ目などまるで見られない。ヴァレリー自身が語っているようにそれは宿命的にあらかじめ紡がれていた言葉。彼は遥かいにしえから海を臨む岬、そこに建っていたその大聖堂「若きパルク」を発見したのだ。天才は創らない。天才は常に発見する。