私の黒い人形

 純粋な人間ほど社会の色に染まりやすい。彼等はその純粋さ故に素朴に素直に何の疑いも無く社会を信用し、いつの間にか社会そのものになっている。真っ白ほど汚れ易いものはないのだ。彼が人間であればあるほど彼を人形にするのは易しくなる。既に別な色に染まっている人間を他の色に染めたり、既に人形として殆ど完成されている人間を別種の人形に造り上げる事は難しい。とにかく純粋なものはすぐに汚れる。純粋は決して長くは生存出来ない。つまりは不純になったものだけが生き残る。もし死によって汚濁が純粋に回帰循環されなかったとしたらこの世界はとんでもなく醜悪なものになっているだろう。もう既になり始めているのだが、それは置いておく事にしよう。
 私は今年で三十三歳になった。もう既に若くはない。私は二十代で死ななかった。つまり私は純粋では無かったのだ。本当に純粋ならばきっと二十代で死んでいた筈である。いや、死んだのだ。純粋な私は死んだ。二十代、更にはもっと前に死んだのだ。既に私は死んでしまった。だから今私はこうして息をしている。ではこの私は誰なのだ?この汚濁に塗れた一人の男は誰なのだ?それは純粋な私の死体である。死体でありながら私は存在しているのだ。言い換えれば死体であるからこそ私は生存出来ている。
 いや、そうではない。私は最初から純粋なんかでは無かった。生まれた瞬間からどす黒く染まっていた。私は生まれつきの人形なのだ。人間ではない。人形としてこの世に誕生したのだ。真っ黒な墨に塗りつぶされた人形。それがそもそもの私であり、その私は今もここで旺盛に呼吸をしている。社会は私を他の色に塗り替えようとした。社会は私を他の人形へと造り替えようとした。しかしそれらは全て徒労に終わった。なぜなら私は真っ黒な墨に塗りつぶされた人形だからである。これを新しく綺麗な人形にする事は不可能である。一度破壊してしまう他あるまい。つまりは私を殺すほか私を変える方法は無いのである。私はそんな社会の思惑を敏感に察知した。真っ黒な墨に塗り潰された人形、つまりは本当の私自身を他人には見えないように胸の奥底へと仕舞い込んだ。だから今まで生きてくる事が出来たのだ。
 私は人形を人形で包み込んだ。しかし段々と外側の人形が、つまりは社会が求める見栄えの良い人形が年齢とともに崩れ始めた。すると当然内側の黒い人形が姿を現し始める。私が詩や小説、あらゆる文章を書き始めたのはこの為である。私の中の黒い人形が歌い出したのだ。蝉が暗い土中の中で何年も無為に過ごすのはただ一つこの夏に鳴いて滅ぶが為である。私の無為な三十三年もただこの夏に歌い滅ぶ、ただそれだけの為に存在したのだ。黒い人形は地上に出て来てしまった。もう二度とそれは暗い土中に戻る事は出来ない。私は言葉を吐き続ける。それが黒い人形の歌なのだ。正しいとか間違っているとかそんな事はどうでも良い。蝉は鳴き続ける。ただ死ぬ迄鳴き続ける事が彼の持つ唯一の正義であり誠実なのだ。芸術家の岡本太郎ならばそれを爆発と呼んだであろう。私の黒い人形は爆発してしまった。私の黒い太陽はとうとうついに爆発してしまった。