少年と人形

 人間が社会化されるという事は人間が人形化されるという事である。生まれたままの姿で、言い換えるならありのままの姿で大人になる者はいない。大人になるとは人形になるという事である。では、一体どのようにして社会は一人の人間を一体の人間にするのだろうか。それは教育である。両親の手元で更には幼稚園から大学に至るまで社会が子供たちを生活させるその空間、結局の所そこで何が行われているかといえば子供の人形化であり、これ等教育機関というものは全て社会に排出して何ら不具合の生じない人形を生産する工場である。教師たちは人形師の異名であり、大概はそれ以上でもそれ以下でもない。教師たちはマニュアルに従って、或いは自らの経験と知識によって形作られた方法によって子供たちをその社会にとって都合の良い人形に仕立て上げる。その社会にとって都合の悪い部分、つまりは人形の枠からはみ出してしまう彼の野性は削ぎ落される。人形の枠から溢れ出して来る生命力は削ぎ落される。そうして子供という一人の人間は教師たちによって殺害され、人形となるのだ。だから社会にとっては、より完全に子供を殺害し、より完全な人形を作り出す教師が良き教師であり、そんな彼は模範的な教師として社会に表彰されるであろう。
 とはいえ、自分たちを殺害する為に襲い掛かって来る教師たちに対して子供たちが全くの無抵抗という訳ではない。誰だってどんな生物だって殺されるのは嫌である。授業中にこっそり漫画を読んだり、学校を抜け出して近くのゲームセンターでたむろしたりと素朴ながら子供たちはしかし真剣に反抗を試みる。或いは直接的な暴力を行使して教師たちの暴力に対抗しようとする子供もいるだろう。しかし、大抵の反乱は教師たちの圧倒的な知力と権力によって鎮圧される。子供たちは小さな人形の枠の中にその巨大な野性と生命力を押し込まれる。しかし、反乱は成功しない。子供たちは人間に戻りたいと痛切に欲求し始める。しかし、反乱は成功しない。一体どうすれば元の人間に戻る事が出来るのか。答えはすぐに見付かる。周りで一緒に机を並べている自分と同じ子供たち、その中から弱そうなのを一人選んで彼を人形にしてしまえば良いのだ。こうして過酷ないじめが始まる。一人の少年を直接的な暴力で或いは言葉の暴力を使って徹底的に蹂躙破壊する。あっと言う間だ。少年は見るも無残に殺害される。まず教師たちによって殺され、次いで子供たちによって。そうしてクラスの中に一人の完全な人形が出来上がる。その人形の姿を見る事によって相対的に子供たちは自分たちが元の人間に復活したような気になる。
 完全な人形になってしまった少年。彼は極限まで小さくなってしまったその枠の中に莫大な野性と生命力を押し込められている。矮小な大人たちからは想像し得ない程に子供たちは巨大なのだ。その巨人の魂を小さな人形の枠に押し込められている。それは象が鼠の着ぐるみを無理矢理に着させられているようなものである。当然激しい苦痛と圧迫感が彼を毎日襲うだろう。しかし彼は何処にも逃げ場が無い。逃げ場を誰も教えてはくれなかった。少年が元の人間に戻る事の出来る場所はまるで無かった。そうして彼は或る日突然校舎の屋上から飛び降りる。それは自殺ではない。生きたまま爪を剥がされ、肌に焼き鏝を当てられ、歯を一本一本無理矢理抜かれ続け、ありとあらゆる過酷苛烈な拷問、死ぬよりも辛く苦しい死の拷問を彼は受けてきたのだ。巨人の魂が小さな人形に押し込められるとはそれ程の苦痛なのだ。そんな死ぬよりも辛く苦しい死の拷問を受けている者が死を選ぶとき、誰がそれを自殺だと言えるだろうか。少年は殺害されたのだ。彼をいじめる子供たちに殺害されたのだ。教師たちに殺害されたのだ。社会そのものに殺害されたのだ。彼の背中を押したのは我々の手なのだ。私が少年を殺害したのだ。

 

 永遠の少年
 
 その少年はいつも窓際の席に座っていた。
 校庭の赤いグラウンドと青い空が見えるその席が彼の特等席だった。
 しかし、少年は校庭を見てはいなかった。
 いつも空ばかり見ていた。

 少年には沢山の友達が居た。
 少年はクラス中の人気者だった。
 いつも笑いながら冗談を言っていた。
 しかし、少年はそんな自分が大嫌いだった。
 本当は笑いたくなどなかった。
 本当は冗談など言いたくはなかった。
 しかし、そうしないと皆に嫌われ
 自分の居場所が無くなってしまう。
 少年をとらえるそんな強迫観念。
 少年は本当の自分の姿を知っていた。
 それは酷く歪な形をした怪物だった。
 それは火を吐き街を暴れ回る巨大な怪獣だった。
 少年は異形の少年だった。
 そんな自分の正体がばれたら
 どんな酷い仕打ちを受けるか分からない。
 だから少年は自ら小さな人形を作って
 その中に無理矢理自分を押し込めた。
 そうして一人の悲しいピエロの人形が完成した。

 そんな少年は学校が終わると
 いつも真っ赤な自転車に乗って
 ひとり一目散に学校から逃げて行った。
 めまぐるしく流れ去っていく街の風景、
 向かい風に逆立った髪の毛、
 時折口の中に入ってくる羽虫。
 少しでも早くあの巨大な墓場から遠ざかりたかった。
 そんなとき少年はいつも強烈な吐き気を感じていた。
 気持ち悪い。気持ち悪い。
 それは今日一日で胸に溜まった嘘の汚物。
 気持ち悪い。気持ち悪い。
 全て吐き出したかった。
 でも全く吐けなかった。
 出てくるのは空気ばかりだった。
 眩暈のするような悔しさ、悲しみ、怒り。
 折れてしまう位に少年はペダルを強く足で押した。
 
 家に帰ると少年は自分の部屋に閉じこもって、
 爆音でロックンロールの音楽を流し、
 大好きな漫画や小説を読んだ。
 映画もたくさん観た。
 それは一つの窓だったのだ。
 その窓の外には何処までも自由な人間たちがいた。
 その窓の外には街を暴れ回る怪獣のような人間たちがいた。
 誰にも憚る事の無い自分の意志や欲望だけに従って
 広大な運命の海原を駆け抜ける
 愚かしくも純粋な人間たちがその窓の外にはいた。
 人形の少年の瞳に彼らは眩し過ぎる程眩しかった。
 自分も彼らのようになりたいと思った。
 それこそが本当の自分の姿だと思った。
 しかし、彼はなれなかった。
 今日も嘘の汚物でぱんぱんに膨れた胸を抱えて家に帰って来る。
 そしてまたこの窓を思い切り開くのだ。
 少年に出来るのはそれぐらいだった。
 他の種類の窓を誰も教えてくれなかった。

 少年は大人になった。
 いつからか彼は窓の外を見なくなった。
 もう殆ど完璧な人形となってしまった彼にとって
 それは余りにも眩し過ぎる光だった。
 ただ苦痛だけしか与えてくれない白い光。
 代わりに少年は社会が人形たちに提供する快楽の味を知った。
 酒を知り、煙草を知り、女を知った。
 それはあの窓の精巧な偽物、代替品だった。
 他の人形たちと同じように彼もその味の虜になった。
 そうして彼はあの本物の窓の外を見なくなった。
 それどころかそんな窓があったという事すらも忘れてしまった。
 いつしか彼はかつての少年が最も憎み軽蔑する人形になっていた。
 いつしか彼はあの窓の外に決して現れる事の無い人間になっていた。
 それでも彼は真夜中に突然目が覚める事があった。
 寝汗でびっしょりと濡れた背中、
 からからに乾いている口の中、
 薄っすらと残っている夢の残骸。
 一体ここは何処だ?
 一体私は誰だ?
 一体私はここで何をしているのだ?
 何故こんなにも胸が苦しいのだ?
 
 十年が経ち、二十年が経った。
 三十を越え、かつての少年はすっかりと中年になった。
 かつて同じ学校で同じクラスで共に過ごした友人たちは
 すっかりと完全な人形になっていた。
 それどころかその多くは
 新しい人形を作り出す立場の人形になっていた。
 しかし、彼は違った。
 歳を取れば取る程にボロボロと
 それまで築き上げてきた人形の外廓が崩れて来る。
 一体どうしたのだ?
 やめてくれ。
 正体がばれてしまう。
 社会に抹殺されてしまう。
 しかし、崩壊は止まらなかった。
 やはり彼は異形の少年だったのだ。
 やはり彼は街を暴れ回る怪獣だったのだ。
 彼を覆い尽くせる人形など始めから無かったのだ。
 やがて彼は社会が人形たちに提供する快楽に味を感じなくなった。
 酒が不味くなった。煙草が辛くなった。女を見ても何も感じなくなった。
 するとまた彼の瞳にあの窓が輝き始めた。
 懐かしさに震えながら
 恐ろしさに震えながら
 彼はその窓へと近付いていった。
 あの日の窓へと近付いていった。
 それは長い間飼育を放棄していた
 虫篭の中を見るような気持ちだった。
 果たして何が見付かるのか。
 
 彼はついに窓の前へとたどり着いた。
 夏の午後の太陽のとても強い陽射し、
 乾いた風に膨らむ白いレースカーテン。
 しかしそこには小さな先客がいた。
 それは一人の蒼白い少年だった。
 膝を抱えて窓の外を真っ直ぐに見ている。
 その姿に驚いて彼は両目を擦った。
 それは紛れも無くかつての彼だった。
 少年はあの日から何も変わる事無く
 ずっとここで窓の外を見ていたのだ。
 十年、二十年、
 長い本当に長い年月を越えて
 彼は彼と再会した。
 少年は生きていた。
 彼の殺人は未遂だった。
 彼の瞳に涙が溢れ出して来る。
 涙などもう無くしてしまったはずなのに。
 彼はその少年に何度も何度も謝った。
 ごめんね、ごめんね。
 私は君を裏切ってしまった。
 しかし少年は黙っている。
 頑なに黙って意固地な顔をして
 窓の外を一心に見詰めている。
 少年にはその窓の外以外まるで見えていないのだ。
 窓から射す強い陽の光が
 そんな少年の瞳をきらきらと輝かせている。
 心臓が震える程それは美しかった。
 それは少年が憧れている純粋さそのものだった。
 少年は人形なんかじゃなかった。
 誰よりも人間だった。
 それを伝えたくて
 どうしても伝えたくて
 彼は少年の肩に触れようと試みた。
 しかしその肩に触れた瞬間、
 窓の前に座る少年は消えてしまった。
 まるで夏の幻のように消えてしまった。
 乾いた風に膨らむ白いレースカーテン。
 やはり自分は彼を殺してしまったのか。
 永遠のような空白、
 ひとり彼はそこに取り残されてしまった。
 すると突然蝉の鳴き声が聞こえ始めた。
 始めはたった一匹の小さな鳴き声だった。
 それが少しずつ数が増え始めて
 やがて信じられない程
 夥しい数の蝉たちが鳴き始めた。
 彼は顔を上げる。
 まるであの小さな窓の枠から
 蝉たちの声が溢れ出してくるようだ。
 それは光そのものだった。
 生命の輝きそのものだった。
 どんどんと眩しくなっていく。
 しかし彼はもう二度と目を瞑りたくなかった。
 しかし彼は一瞬もあの窓から目を逸らしたくなかった。
 また一段と蝉たちの声が眩しくなった。
 どんどんとどんどんと眩しくなっていく。
 光が彼の瞳からも溢れ始める。
 もう彼は何にも見えてはいなかった。
 もう彼は何も見る事が出来なかった。
 真っ白な光の洪水が全てを飲み込んでいった。

 やがて蝉たちは鳴くのを止めた。
 一匹、また一匹と大地へ堕ちていった。
 膨らんでいた白いレースカーテンも
 今はただ窓の脇で静かに垂れ下がっている。
 嘘のような静寂に辺りは包まれている。
 そこにあの彼の姿はもう無かった。
 まるで夏の幻のように消えてしまった。
 代わりに一人の少年が膝を抱えて座っていた。
 頑なに黙って意固地な顔をして
 その少年は窓の外を見ていた。