人形の殺人と自殺

 例えばスーパーへと買い物に行く。肉や野菜を籠に入れてレジへと並ぶ。酷い長蛇の列の最後尾。店員の動作が非常に遅い。並んでいる人々は皆苛々が募ってまるで悪鬼のような顔をしている。やっと自分の番が来る。しかしやっぱり店員は遅い。のろのろしている。全くやる気が感じられない。しかも酷く無愛想だ。そんなとき大抵の人間は腹を立てるだろう。『しっかり仕事しろよな』心の中で毒づかずにはいられない。或いは実際に声を出して文句を言う人もいるだろう。こんなとき、彼は何故怒っているのか。それは自分が金を払っているのにも関わらず目の前の人間がそれに応じた態度を取らないからである。言い換えるならば目の前の人間が人間のままでちゃんとした人形になっていないからである。
 人間は金で野菜や肉を買う。しかしその前に野菜や肉を売る人形を買っているのだ。金を払えば、目の前の人間が野菜売りや肉売り、スーパーの店員という役を演じてくれる。金さえ払えば目の前の人間から個性や主体性を奪い去り一つの小さな枠に嵌め込む事が出来る。金さえ払えば一人の人間を一体の人形に出来る。つまり目の前に居る一人の人間を殺す事が出来るのだ。もっと高い金を払えばもっと完璧な殺人ともっと完全な人形が手に入るだろう。だから人々は必死に仕事をして金を稼ごうとする。しかしより多くの金を稼ぐ為にはそれだけ自分も殺害され、それだけ自分も人形にならなければならない。そうして彼は殆ど人形になる。すると当然彼の中に激しい欲求が生まれる。本当の自分に帰りたい。人間に戻りたい。どうすれば?答えは簡単、その稼いだ金を使い他の誰かを殺害して人形にしてしまえば良いのである。自分よりもより人形に近い人間を目の前にしたとき、彼は自ずと相対的に人間へと戻る事が出来る。だからより完全な人形に近い人間ほどより完全な人形を欲しがる。そうでなければ彼は人間に戻れない。中途半端な人形なんかじゃ彼は人間に戻れない。もっと金が要る。そうして彼はまた人形に近付いていく。
 全くねずみ講顔負けの詐欺的なシステムである。誰も彼もが金で人形を買っている。誰も彼もその手は赤黒く血に汚れている。人身売買及び殺人が横行している。あんまりにもそれが当たり前すぎて人々はその事に気が付いていない。皆が皆、お互いにその首をきつく絞め合っている。そんな社会にむせ返るような重い息苦しさが漂うのは当然である。しかしそんな人形たちの息苦しさがまた更に新しい人形を量産するエネルギー源となっていく。
 彼は酷く貧しい。一日残業込みの十二時間の重労働。しかし給料は恐ろしく安い。彼は酷く貧しい。長い仕事の時間、ずっと上役に怒鳴られ同僚からも無言の圧力を受けている。彼は酷く貧しい。殆ど完全な人形になってしまった。息苦しさと圧迫感で死んでしまいそうだ。しかし、仕事が終わっても自由に使える金は殆どない。彼は酷く貧しいのだ。彼が本当の自分自身に戻る事の出来る時間はない。本当の人間に戻る事の出来る時間はない。息苦しさと圧迫感が益々強くなっていく。それは欲求なのだ。それは願いなのだ。しかしそれが叶えられる機会は失われている。祭りは永久にこの街へとやって来る事はない。人形として生き、人形として死ぬ、それが彼に与えられた運命なのだ。しかし、息が苦しい。胸が圧迫される。やがて彼は仕事が終わると朦朧と何の意味も無く街中を彷徨うようになる。まるで虫篭に入れられた黒い虫のように。出口を探している。彼を殺害し人形にし続けるこの街からの出口を探している。すると小さな金物屋の店先に彼は辿り着いた。そこには沢山の鍋や薬缶に紛れて何種類もの包丁が置かれている。沈みかけた夕陽の光を浴びて真っ赤に染まる鋭い銀色の包丁たち。吸い寄せられるようにして彼はそんな包丁の一つを手にする。するとずっしりと重い鉄の感触とともに或るイメージが電撃のように彼の感覚を駆け巡る。それはこの包丁を握ってこの街のど真ん中に堂々と一人立っている自分の姿。その周りには何人もの人々が赤い血を流してまるで人形のように斃れている。彼はうっとりとする。しかし同時に酷く恐ろしくなり、彼はその包丁を慌てて手放すと店からも逃げるように退散する。爆弾のような酷い胸の鼓動を抱えて彼は駅へと戻っていく。何も知らない何人もの人々と擦れ違う。彼にはその顔が皆人形のように見える。同時に自分だけが人間のように思えて来る。彼の心は酷く後ろめたい気持ちと激しい高揚に包まれる。しかしそれも長くは続かない。駅に辿り着く頃にはすっかりと元の状態に戻ってしまう。彼は夥しい人間達に囲まれている。誰も皆彼よりは金を持っていそうな人間たち。やはり自分は人形に過ぎない。するとまたあの包丁が心の中に浮かぶ。自分が人間になる為にはあの包丁がどうしても必要なみたいだ。彼は頭を振る。恐ろしい考えをやめようとする。殺人はいけない。そんな事をしたら社会は罰を下し自分をもっと完全な人形にしてしまうだろう。彼は頭を振る。しかしそうすればするほどにあの赤い陽に輝く銀色の包丁が眩く彼の中で輝きだしてくるのだ。胸が圧迫される。息が苦しい。それは夜彼が寝床に入るまで続き、その眩しさに目が眩んで彼は結局殆ど眠れないままに朝を迎える。これからまた長く過酷な人形としての一日が始まるのだ。胸が圧迫される。息が苦しい。それを後押しするように携帯が鳴る。昨日の仕事のミスを問いただす上役からの厳しい言葉。激しい怒り、彼は携帯を壁に向かって思いっきり投げ付ける。大きな音とともにまたあの赤い陽に輝く銀色の包丁が心の中に浮かぶ。それは朝の来ない彼の心に昇り始めた太陽の光と熱そのものだった。もう何も考えられない。彼はまるで黒い虫のようにその光と熱のように吸い寄せられていく。あの小さな金物屋に向かって彼は歩いていく。
 彼女は酷く貧しい。一日残業込み十二時間の重労働。しかし給料は恐ろしく安い。彼女は酷く貧しい。更には上司からの過酷なパワハラ及びセクハラと同僚からの陰湿ないじめを受けている。抵抗しない彼女は殆ど完全な人形になってしまった。仕事が終わっても彼女が自由に使える金は殆ど無い。彼女が本当の自分に戻れる瞬間は殆ど無い。彼女が本当の人間に戻る事の出来る瞬間は殆ど無い。胸が圧迫される。息が苦しい。とても耐えられそうにない。死んでしまいそうだ。それでも彼女はこの街から逃れて生きる術を知らない。やがて彼女は仕事が終わると意味も無く朦朧と街の中を彷徨うようになる。金はないから何を買う事も出来ない。それでも彼女はまるで虫篭の中に入れられた黒い虫のように街の中をうろうろと歩き回る。出口を探しているのだ。私を殺害し人形にしてしまったこの街からの出口を探している。やがて彼女は小さな金物屋の店先に辿り着く。薬缶や鍋に紛れて沢山の包丁が置かれているその金物屋の店先。沈む掛けた夕陽がそんな銀色の包丁に真っ赤な光を纏わせる。『綺麗』彼女は吸い寄せられるようにその包丁を手に取る。すると鉄の重たい感触と一緒に或るイメージが電撃のように彼女の感覚を駆け巡る。この街のど真ん中に倒れ込んでいる自分の姿。胸には包丁が突き刺さり、そんな彼女の周りには大きな血溜まりが出来ている。彼女はうっとりする。それは人形である自分自身が完全に壊れた様子だった。しかし同時に酷く恐ろしい気持ちになり、慌ててその包丁を手放した彼女は急いでその店先を後にする。爆弾のような酷い胸の鼓動を抱えて彼女は駅へと向かって歩く。何も知らない人々と擦れ違う。しかしそんな人々の視線は彼女を素通りしていく。彼女は透明になったのだ。人形の殻を壊されそこから抜け出して透明な存在になったのだ。もう誰も彼女を人形に戻す事は出来ない。しかしそんな心地の良い浮遊感は長く続かない。駅に辿り着く、そのときにはもう彼女は元の人形に戻ってしまっている。人々の視線が強く彼女の肌に突き刺さって彼女は目を伏せる。胸が圧迫される。息が苦しい。彼女は逃げ出したくなる。しかしそこは電車の中だ。鉄の壁に彼女は囲われている。やっと家に辿り着く。手を洗いに洗面台の前に立った彼女、目の前の鏡に自分の顔が映り込む。それはやはり人形の顔だ。自分の意志などまるで存在しないかのような蒼白い人形の顔。何となく彼女はその鏡の中の自分に向かって笑い掛ける。目の前の人形は恐ろしく完璧な笑顔でそれに応えて来た。これは人形だ。私は人形になってしまった。胸が圧迫される。息が苦しい。すると再びあの光景が彼女の心の中に浮かび上がる。赤い陽に包まれて輝く銀色の包丁。彼女は激しく頭を振る。死ぬのは嫌だ。痛いのは嫌だ。彼女は激しく頭を振る。しかしそうすればする程に彼女の心は黒い炎に包まれる。結局彼女はその熱さに焦がされ続けて一睡も出来ずに朝を迎える。酷く胸が圧迫される。酷く息が苦しい。するとそれを後押しするかのように携帯が鳴る。上司からの卑猥なメール。激しい怒りに包まれる。彼女は洗面所へと向かい、鏡に向かってその携帯を思いっきり投げ付ける。大きな音がして、しかし鏡は微かにひびが入っただけで割れない。そこには相変わらず人形の自分が映り込んでいる。するとまたあの光景が彼女の心の中に浮かび上がる。赤い陽に包まれて輝く銀色の包丁。それは永遠の夜を生きる彼女の心に昇り始めた眩い太陽の光と熱だった。もう何も考えられない。彼女はまるで黒い虫のようにその光と熱に吸い寄せられていく。あの小さな金物屋へと向かって彼女は歩いていく。
 夜が明けた。街の中を会社へと向かう人々が慌ただしく歩き去って行く。灰色のシャッターが閉まっている小さな金物屋の前に一人の男と一人の女が並んで立っている。店が開く時間までは程遠い。しかし彼等は俯き加減に黙ってひたすら待っている。他に行く場所が無くなってしまったようだ。その背後を一匹の痩せた黒猫が通り過ぎる。猫は二人の背中に一瞬怪訝そうな顔をして立ち止まりまたすぐに歩き去っていく。平和な朝だ。平和過ぎる朝だ。