幽体離脱

 既に夜は明けていた。私は駅の改札を潜り抜けていた。朝も夜もない駅の構内。掲示板には先々週に終わった祭りのポスターがまだ貼られている。私が行かなかった祭りのポスターだ。構内には誰も居ない。私は階段を昇り始める。一段、一段、駅のホームへと上がっていく。すると何やら赤銅色に輝いている物体が視界に入った。一段、一段、また私は階段を昇った。顔のすぐ目の前にその赤銅色の輝きがやって来る。それはひっくり返った黄金虫だった。脚が一本欠けている。五本の脚を力無く天井へ向けている。蛍光灯の光がその脚や腹を赤銅色に輝かしているのだ。まるで何かの美しい鉱物だ。私は手を伸ばし、指の先でその黄金虫の腹をつつく。とても硬い感触。しかしその鉱物は生きていた。五本の脚をじたばたと動かし始める。しかしまるで意味がない。全然ひっくり返る事が出来ない。まるで亀だ。まるで私だ。今日も酷い金縛りに遭った。蒲団の上で目覚めた私は全く身体を動かす事が出来なかった。必死に腕を上げ、死に物狂いで頭と上半身を上げようとした。しかしまるで意味がない。全然起き上がる事が出来ない。更に酷い事にこんな事は初めてなのだが、息が出来なかった。まるで水の底に沈められているかのように呼吸が出来ない。苦しい。苦しい。パニックになりながら私は必死に腕を上げ、死に物狂いで頭と上半身を上げようとした。しかしまるで意味がない。水の底から這い上がる事が出来ない。こうやって人は死んでいくんだ。頭の片隅でそんな事を思う。苦しいな。空が無い。太陽が見えない。ここは何処だ?何処で私は死んでいくのだ?ここは駅の階段だ。私はその黄金虫を手に包み込んだ。手の中で彼はじたばたと藻掻いている。手の中がくすぐったい。まあ、待つんだ。今、君は暗闇の中にいるかもしれない。でもすぐにそれは幻のように消える。僕が君を空の下に連れてってあげるよ。だからそんなに暴れるんじゃない。一段、一段、また私は階段を昇っていった。
 私は駅のホームに上がって来た。人間が数人その上に立っている。黄金虫はまだじたばたと手の中で暴れていた。私は線路に向かって歩いていく。白線の内側に辿り着き、手を開く。緑色の黄金虫が朝の光に照らされる。黒く円らな瞳で不思議そうに上を見ている。彼の暗闇は消え去っていた。まるで幻のように消え去っていた。自由の空がそこにある。さあ、飛んでいくんだ黄金虫。朝の空の上には沢山の雲が浮いていた。その雲がまるで早送りのビデオの様に端から端へと流れていく。とても強い風が吹いているようだ。海のようだ。あれは海なのかもしれない。私の知らない海。ならばここはそんな海の深い底なのだろう。息が苦しい。私は水の底に沈められている。私は金縛りにあっている。私は僅かにも浮かび上がる事が出来ない。こうやって人は死んでいくのだろう。頭の片隅でそんな事を思う。苦しいな。空が無い。太陽が見えない。大きな海が私の頭の上を塞いでいる。私の知らない海が私を包んでいる。黄金虫が動き始めた。呑気に両手で顔を洗っている。余りにも眩し過ぎて目を擦っているのかもしれない。あれは何だろう?目まぐるしく動いているあの白い光は何だろう?ゆっくりと黄金虫が私の指の先へと歩き始める。私は他の指を全部閉じて人差し指だけを空に向かって伸ばした。爪の先が私の知らない海に重なる。一歩、一歩、黄金虫がその指を昇っていく。まるで梯子を登っているようだ。私の知らない海と私との間に伸びた細い梯子。私はそれを登る事が出来ない。私自身が梯子なのだ。一歩、一歩、黄金虫が私を登っていく。苦しい。息が出来ない。私の身体はいつの間にか石のように固くなっていた。本当の梯子になってしまったらしい。オレンジ色の電光掲示板が電車の到来を告げる。椅子の上に座っていた人たちが立ち上がる。白い雲が目まぐるしく流れていく。指の上の黄金虫はその空を見ていた。不思議そうに私の知らない海を見ていた。また両手で顔を洗っている。自分の瞳を疑っているのかもしれなかった。あれは何だろう?目まぐるしく動いているあの白い光は何だろう。地響きが鳴り始める。電車の顔が遠くに見え始めた。ホームの崖っぷちに人が集まり始める。私は動けなかった。まるで身体が動かなかった。私は金縛りに遭っていた。私は駅の古い柱だった。ずっと昔からここで駅の屋根を支えてきたのだ。恐ろしい重力が私の肩に圧し掛かる。屋根と屋根の上の空の重みが私の肩に圧し掛かる。私の知らない海が私を圧し潰そうとしている。しかしもう苦しくはなかった。私はその駅の屋根の上に居た。あれは何だろう?目まぐるしく動いている白い光はなんだろう。私は両手で目を擦った。見た事も無い海が私の頭の上を覆っている。すると突然私の背中が二つに割れた。中から透明な羽根が見え始めた。次の瞬間にはもう私の身体は宙に浮いていた。強い風とともに物凄いスピードで電車が突進してくる。私はそれを器用に避ける。また更に高く飛び上がる。みるみると駅が街が小さくなっていく。でも私は一度もそれを振り返らなかった。吸い寄せられるように当たり前のように私は私の知らない海へと飛んでいった。

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 私は私のこの身体を余り信じていない。私は私のこの顔を余り信じていない。嘘のようだ。これが私だなんて。何かの悪い冗談だ。その感じは年齢を重ねる毎に強くなっていく。段々と私と私の身体が乖離していく。幽体離脱。私は一時期それに凝っていた。インターネットで幽体離脱関係の事を調べまくっていた。目くるめく夢じゃないか?自分の身体を抜け出し自由にこの世界や知らない世界を歩き回り飛び回るなんて。本を読む人は勿論あらゆる架空の世界に浸りたがる人間の大概はそんな幽体離脱の状態を求めているのじゃないのか。三島由紀夫澁澤龍彦との対談の中でこんな事を言っていた。「結局、文学の役割っていうのは読者を何処かに連れて行ってくれる。それしか無いんじゃないだろうか」とにかく私は幽体離脱に凝っていた。夜、部屋を真っ暗にして瞑想用のBGMを流し、頭から足先まで少しずつ全身の力を抜いていく。瞳は閉じて、意識は天井の上に集中する。しかしそのまま眠ってしまう事が殆どだった。ごく稀に成功したかに思えたときもあった。しかしそれは夢と区別が付かなかった。私の幽体離脱実験は結局そのまま熱が冷めてしまった。それと同時に私は文章を書き始めた。小説を書き始めた。詩を書き始めた。私の幽体離脱への欲望は文学へと移行していった。いや、帰還していったと言った方が良いだろう。私は子供の頃から本が好きだった。それはやっぱり本というものが私を何処かに連れていってくれるものだったからだ。私は常に何処かに行きたい子供だった。ここではない何処かに行きたい子供だった。私の幽体離脱願望は子供時代から始まっていた。でも結局私を完全に何処かへ連れて行ってくれる本とは出会う事は出来なかった。なぜなら私は今ここに居る。ハーメルンの笛吹き男は私に現れなかった。私は彼だけを待っていた。私は私を二度と戻る事の出来ない深い崖の底に誘ってくれる笛の響きを待っていた。それだけを待っていた。私は一冊の本を待っていた。私は一人の人間を待っていた。しかし現れなかった。なぜなら私は今ここに居る。椅子に座って息をしている。私は苦しい。それは生きているからだ。ならば私は死にたいのか?それも違う。私は何処かに行きたいのだ。私は空を飛びたいと願っている一匹の毛虫なのだ。
 毛虫はやがて蛹になり美しい蝶となるだろう。しかし、蝶に毛虫だったときの記憶が残っているだろうか。蝶の意識は毛虫と連続しているのか。或いは毛虫だった頃の意識は完全に無くしてしまうのか。蝶と毛虫は別な生き物なのか。どれも違う。毛虫は蝶を内包しているのだ。毛虫は蝶として羽ばたく自分の未来を内包しているのだ。要するに未来の意識が彼にはあるのだ。毛虫が蝶になるのではない。蝶が毛虫になっているのだ。蝶の意識が毛虫の衣装を纏っているのだ。だから毛虫はその本来の自分の姿になろうといつも藻掻いている。やがて毛虫は蛹となり蝶となるだろう。蝶となり花と花の間を飛び回るだろう。しかしそれすらも彼の本当の姿ではないのだ。蝶は蝶を超えた何かの意識を持っている。それはやはり未来の意識だ。だから蝶は花と花の間を藻掻いている。本来の自分になりたいのだ。蝶は蝶でない。私もまた同じだ。私は私ではない。私は遥か未来に存在する。この私はその私を覆う衣装に過ぎない。だから息が苦しいのだ。だから何処かへ行きたいのだ。私は私になりたいのだ。本来の私になりたいのだ。それはきっと全てだろう。それはきっと無だろう。それはきっと神だろう。私は神になりたいのだ。私は遥か未来に出現する完全になりたいのだ。それは同時に遥か昔に存在した完全でもある。それこそが私なのだ。それ以外に私は存在しない。私は蝶なのだ。蝶は私なのだ。