私の知らない海

 風が吹き荒れている。近所で改装中のビル、その外壁全域を覆い包む灰色のシートが強い風を受けてぱたぱたとまるで港に停泊している巨大な船の帆のようにはためいている。「出航の朝だ」私は呟く。何処へ?私の知らない海へ旅立つのだ。昨日の朝、人差し指の先から飛んで行った緑色の黄金虫の姿が浮かぶ。青い空、目まぐるしい雲の流れ、その中へ幻のように溶けていった小さな影。無事に彼は私の知らない海へと辿り着いただろうか。気が付くと私は空を見上げている。今日も雲たちは目まぐるしい。私の船はまだ港に停泊している。真っ白な帆を烈風にはためかせ、私が乗って来るそのときを待っている。早く乗らなくてはならない。彼の後を追い掛けていかなくてはならない。また強い風が吹いた。私の前髪が翻り、おでこが露わになる。そのおでこに風が当たる。すると一瞬、ほんの一瞬だけ潮の匂いがした。海の匂い。私の知らない海の匂い。私は瞳を閉じた。胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。真っ暗だった視界に段々と青い光が溢れて来る。まるで夜明けを見ているようだった。やがてそれは私の視界全てを覆った。空と海。私は港に立っていた。海の只中へと真っ直ぐに伸びた白ばんだコンクリートの道、その先端に一人立っていた。波が寄せる。遥か真下、音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。私は裸足だった。青い空には雲一つとして浮かんで無かった。太陽だけがその頂にぽつんと浮かんでいる。とても寂しそうだ。海にはその光が白く賑やかに浮かんでいた。ちらちら、きらきら。私はふと我に返る。船は?額に手を当て辺りを見回す。しかし、船らしき影はその何処にも見当たらない。痕跡、その欠片すらない。私は落胆してその場に座り込んだ。また波が寄せる。遥か真下、音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。すると私は気が付いた。遥か真下、消波ブロックの上で何かが光っている。赤銅色の輝き。あれは。もしかしたら。しかし遠過ぎて確認は出来ない。「そんな訳はない。あの黄金虫がここに落ちている筈はない」私は自分に言い聞かせる。音を立てて波がまた消波ブロックに白く砕ける。細かい水飛沫が赤銅色の輝き、その周囲に降り掛かる。心臓がきつく締め付けられる。痛い。直ぐにそれは激しい動悸へと変わる。みるみると顔が蒼褪め、手の先が震えだす。危機が押し迫っている。恐ろしい波に彼が飲み込まれてしまう。音を立てて波がまた消波ブロックに白く砕ける。焦眉に顔が醜く歪む。でも本当に?あの赤銅色の輝きは本当に黄金虫?遥か真下にあるそれを確かめる術は一つしかなかった。しかし私は躊躇した。余りにも高い。固そうな消波ブロック。着地に失敗したら死ぬだろう。或いは海に落ちてしまうかもしれない。でも。昨日の朝呑気そうに両手で顔を洗っていた彼の顔が浮かぶ。当たり前のように空の中へ溶けていった彼の小さな背中が浮かぶ。手の中のくすぐったい感触が蘇る。彼は生きていた。まだ生きているかもしれない。とても眩しかった。とても抗う事が出来ない。その眩しい光の中へと私は思いっ切り飛び込んだ。一瞬、私は完全な浮遊感に包まれる。空と海の間に私は存在している。しかしすぐに時間という重力が信じ難い速さで私を石の上に叩き落とす。消波ブロックの上に私は落ちた。強い衝撃が裸の足の裏から下半身に向かって走る。だが無事に着地出来た。衝撃に両脚がまだ震えている。その足元に波が寄せる。大きな音を立ててその波が消波ブロックに白く砕ける。冷たい海の飛沫が私の足の指や膝頭までにも降り掛かる。すぐに私はあの赤銅色の輝きを探し始めた。あった。それは私の足元、その左側の方に落ちていた。しかし。私の顔が奇妙に歪む。それは黄金虫では無かった。銅製の太いボルト、それがその正体だった。私の全身から力が抜けていく。その場にしゃがみ込む。足を投げ出して、尻と両手をついた。笑いが込み上げて来る。心臓の動悸がそのまま笑い声へと変わる。止める事の出来ない殆ど痙攣的と呼べるその笑い。胸が苦しい。私は目に涙を浮かべながら石の上落ちているそのボルトを手に取った。指につまんでそのボルトを目の前にかざす。もうすぐ目の前に横たわっている海、その青さの前で赤銅色の光がきらきらと輝く。笑いは止まらない。私はそのままそのボルトを海に向かって思いっ切り投げ付けた。大した感触も無い。すぐにそれは空だか海だかわからないところへ消えてしまった。幻のようだった。段々と笑いがおさまってくる。私は後ろを振り返った。それは絶壁だった。干乾びたフジツボが張り付いている黒ずんだ絶壁。とても高い。とても登れそうにない。途方に暮れて私はその頂を見詰めた。空が青く眩しい。その空を背後に一人の男が立っている。裸足だ。風が黒い髪を翻し、おでこが露わになっている。痛切な瞳で何かを探している。すぐに彼が何を探しているのか分かった。私は手を振った。手と腕が千切れそうな程手と腕を振った。声は全く出なかった。すると突然強い風が吹き始めた。私は飛ばされそうになる。同時に海の方でとんでもなく大きな波が起こった。海が空を全く覆い隠してしまった。それでも私は彼に向って手と腕を振り続けた。千切れそうになる程降り続けた。「君の知らない海はここにあるよ」心の中でそう叫んだ。すると彼の顔がゆっくりと下を向き始めた。すぐに彼は何かを見付けた。石の上に落ちた私の姿を彼は見付けた。彼の瞳と私の瞳が一つに重なり始める。一つになった。直後。大きな波が私を飲み込んだ。消波ブロックごと私は海に飲み込まれた。あらゆる生命の記憶が私を駆け巡る。あらゆる生命の感情が私を駆け巡る。海は感情と記憶の坩堝だった。海は生命の坩堝だった。そしてそれは瞬く間に飽和した。私はまるで何も見えなくなった。私はまるで何も聞こえなくなった。私は何も感じられなくなった。私は海になった。私は私の知らない海になった。
 やがて波は引いていった。消波ブロックが再びその頭を現す。しかしそこには誰も居なかった。絶壁の上、海の只中へと真っ直ぐに伸びている白ばんだコンクリートの道、そこにも誰も居なかった。何処にも誰もいない。ただ空と海の上に太陽がぽつんと寂しそうに浮かんでいた。