海は恐ろしい。たとえその深奥の秘密の中へ潜らなくてもたたずっと見詰めているというだけで混沌と無限に形を変えていくその波は見る者、彼の「私」をその深淵の青いはらわたの中へと丸ごと飲み込んでしまう。絶えず「海」と叫んでいなくてはいられない不安。しかしうねり踊り狂う波の形の千変万化は嘲笑う魔女のように如何なる言葉の網をもすり抜けてひたひたと彼の「私」を浸食してしまう。近付かないのが一番なのだ、海には。しかし気が付くと人は海を見ている。まるで吸い寄せられる磁石のように彼の「私」を喰らう人魚の瞳を見ている。私の街には海もなく人魚も居ないから私はいつも空を見ている。青い。青い。青い。咲き乱れた青い薔薇、不可能の天蓋。そう、不可能なのだ、青は。しかしそれはかつて可能だった不可能なのである。人間は皆、言葉や概念を使うからその観念の砂漠で赤く錆び付いた息を吐き暮らしている。しかしそのまるで何もなく乾燥し果てたその砂漠は遥かいにしえに青い海だったのである。そう、かつて人は皆人魚だったのだ。海は恐ろしい。しかし私の中の人魚がその喪われた海を求めて歌う。胸が苦しくなるような悲しくも美しいその歌声が抗い難く私をあの魅惑的な青い海へと引き寄せる。