日記08/20『太陽の祭壇』

 赫々たる日光。今日も噎せ返るほど太陽を浴びた。道を歩けば何処でも陽に当たる。夏は木の陰にすらその版図を拡大していた。うなだれて俯き蒼白いビルの建物のなかへ、夏の外へと足早に避難していく人間たち。しかし私はというと止せば良いのに昼の休憩の時間、あの空の暴君が最も苛烈な鞭を振るい始めるその時間、またあの場所へと足を運んでしまった。

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 太陽の神殿。愛着と敬慕の念を込めて心密かに私がそう呼んでいるその建物は街の中心から少し離れた並木道の端にある。三段重ねの石段の上に建つ白い骨組みだけの構造物。日光に照らされて煌々と純白の輝きを放つその姿はまるで古代希臘の遺跡を前にしているようだ。今日も私はその周囲を森の奥の湖のように囲う緑の原を掻き分けて太陽の神殿に昇った。一段、二段、三段。黒い鞄を石の床に下ろして八つある柱の一本の根元の横へ腰掛ける。激しい雷雨のように。日光は屋根のない頭上から容赦なく降り注ぎ、既に火傷しそうなくらい熱くなった床石の表面とともに私の頭や腕、全身を焼き焦がす。夥しい汗の雫。鞄から麦茶を取り出し、既にぬるくなったその茶色い飲み物を一気に飲み干す。今日も私はここに来てしまった。木陰はすぐそこにあるのに、冷房の効いた喫茶店もすぐ近くにあるのに、今私は太陽に焼かれて無意味に体力を消耗している。時折、周囲を通り掛かる人々が怪訝そうな瞳でこちらを見ている。しかしそんな薄弱な視線の光も忽ち圧倒的な夏の太陽の光のなかへと飲み込まれていく。これは神聖な交流の儀式なのだ。太陽と私。彼と私だけがここにいる。空になった麦茶の容器を脇に寄せて私は仰向けに寝そべった。太陽とのくちづけ。

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 太陽!太陽!完全な太陽!--『三島由紀夫紀行文集』

 三島由紀夫の処女航海。広大な青の世界へと旅に出た船のデッキの上で彼は太陽と再会した。完璧な太陽と再会した。その同じ太陽がぎらつく眼差しで私の全身全存在を刺し貫いている。余分なものはすべて汗となって更に蒸発し消えていく。余分なもの、それは想像力だ。

恩寵がはいってこられそうな全部の割れ目をふさごうと、想像力はたえず働きかけてくる。--シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵

 しかし、思考は本質的に夜に属するのではないだろうか?言葉による創造は、必然的に、夜の熱い闇のなかで営まれるのではないだろうか?--三島由紀夫『太陽と鉄』

 思考も現実と私を遠ざけるあの悪しき想像力の一種にしか過ぎない。それはこの低き地上に私の存在を繋ぎとめる足枷だ。しかしその足枷をばねのようにして、抵抗装置として使用し、あの青い空へ飛んでいった人間たちが居た。だから人々はそんな彼らの姿を見て思考を想像力を翼なのだと勘違いしてしまった。結局彼らは重い足枷に引きずられて地上よりもっと低く暗黒の地下へ沈み込んでいった。私もかつては夜の鳥だった。想像の翼で空を駆けていると思い込んでいた。しかし五年の間、ただひたすら無意味に豪奢に太陽の炎を浴び続けて、私の夜はすっかりと蒸発して無くなってしまった。思考力や感性、想像力を私は失った。最終的に残ったもの、それは有無を言わさず突き付けられるナイフの先端、白昼の表面だった。

 私は肉体の縁と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかった。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。--三島由紀夫『太陽と鉄』

 神秘は深さのなかではなく表面にある。聖なる世界は深海のなかではなく青い波の表面に、宇宙にではなくあの青い空の表面にある。見ること、決して飛ぶことなく、遥か地の底、この石の床の上から青い空をただ見続けること、そして両目を焼かれること、それ以上に高くあの神聖へ飛翔する翼は人間に与えられてはいないのだ。三島は谷崎潤一郎論のなかで谷崎を表面へのダイバーと評した。私も潜ろう。表面の表面へ。豊穣なあまりにも豊穣なあの海は明日も私の頭の上に青く輝いているはずだから。

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