遠い夏

 

 昼を過ぎて陽射しはまた更に強くなった。街全体に白い瘴気のような陽炎が立ち昇り、歪んだ視界の彼方に蜃気楼のような高層ビルが浮かぶ。太古の威光を取り戻した太陽は禍々しく空は悲劇的な青さに輝いている。絶滅した恐竜の最後の一匹が斃れたときもきっとこんな空だったのだろう。無数の呻き声や絶望の嘆願、それに夥しい赤い血を余すことなく飲み干してその肥沃さを増す無情な聖女の青い瞳。しかし血など一滴も辺りに見受けられなかった。代わりに数え切れない蝉たちの鳴き声が野太い滝のように空のなかへ落ちていく。彼らはいったい何処にいるのだろうか。見渡す限り樹木など一本も生えていないこのアスファルトの砂漠の何処に?

 半ば朦朧とした意識でそんなことを考えても無駄なことだった。もう既に何時間も私はその裸の額や全身にあの空から降り注いでくる容赦のない熱線を浴び続けていた。長い間、うすら寒い部屋の片隅で窓の外に痛切と待ち続けた夏、それはただの地獄だった。顔の半分を覆う白いマスクがその焦熱をまた更に煽る。唇と唇の間から漏れる熱く乾いた息はマスクの布と顔の間にこもり、布と鼻の隙間から僅かに漏れ出た息も二つの眼球の表面を焔のように炙り、そのたびに視界が一瞬だけ赤紫色に変わる。まるで猛毒の息を目に浴びているようだった。熱帯の密林の奥で有毒な瘴気を周囲へと巻き散らす植物。朽ち果てた小鳥や昆虫たちの屍体の横で赤色や黄色、けばけばしい原色の巨大な花を咲き乱し残忍に嗤う、そんな熱帯の邪悪な植物に自分がなった気がした。しかしそうして毒を巻き散らしているのは自分だけではなかった。目の先の白熱して眩しい石の道の上にはぞろぞろと私と同じようにマスクで顔を覆った人々が歩いていた。まるで巣穴を失った黒い蟻たちのように力なく俯いて歩く彼らの口からもきっとこの毒の息が漏れているのだろう。街全体を覆って見えるあの白い瘴気のような陽炎は本当に有毒な瘴気だったのだ。すると青かった空が刹那真っ赤な炎の色に変わった。まるで生命の存在しない死の星を目の前にしているような。空はすぐに元の色へと戻った。私は視線を下に、石の上で焼けるボロボロのスニーカーのへと移した。いや、そうではない。あれはただの陽炎だ。禍々しい太陽の熱光なのだ。いや、そうではない。あれは蝉たちの鳴き声だ。夥しい生命の爆発なのだ。

『全部、同じことだよ。夏、地獄そのものさ』突然、肩の隣で声がして私は振り返った。しかしそこには誰もいなかった。代わりに小さなが白鶺鴒(はくせきれい)が立っていた。高熱に熱せられた石畳の上でその小さな鳥は立ち尽くし、精気なくその長い尾を振っている。所々にほつれ乱れた羽毛。黒いくちばしは半ば開かれたままで彼もこの地獄の暑さに弱っていることが分かった。いや、そうではない。彼は私の吐く毒の息によって衰弱しているのだ。邪悪な植物の横で朽ち果てた小鳥の屍体。いや、違う。彼は喉が渇ききっているのだ。私は立ち上がって水を探した。水は歩道の向かい側にある公衆トイレの脇にあった。私は歩いていきその蛇口の前に立った。陽の光に煌めく銀色の蛇口は固形の金属というよりはどろどろに溶けた金属の液体のようで、その表面の異常な高温に顔をしかめながら栓をひねると本当の液体が音を立てて流れ始めた。水は冷たかった。熱に火照った両手が急速に冷えていく。まるで火の星だった地球に最初の雨が降り始めたようだ。最初の雨。最初の冷たさ。私はその冷たさを頭から浴びた。髪の表面から髪の付け根の頭皮へ、つむじから後頭部、耳の裏や後ろ首へと水は流れていく。地獄の夏はばらばらに砕けていった。瞼の裏の暗闇のなか、それは何百ものの割れた鏡となって、その一枚一枚に色々な夏の姿が映り込んで、それはまた野太い水の滝となって蛇口の下の暗い下水溝のなかへと落ちていった。

 水を浴びて冷たく醒めた意識にまたあの夏の街が映った。しかしそれはとても遠い夏だった。蜃気楼のビルも蝉の鳴き声もひどく遠かった。道を歩く人々は顕微鏡のなかの細胞のように小さかった。うすら寒い部屋の片隅で窓の外に夢見ていた夏がそこにはあった。私は地球に誕生した最初の生物のように空を見た。空は涙が出るほど眩しく青かった。太陽は祭りの開始を告げる銅鑼を喧しく打ち鳴らしている。透明な水を入れたペットボトルを片手に私は白鶺鴒のもとへと急いだ。