聖雨

 ※<R18>性的な表現があります。18歳未満の方は移動ください。

 

 関東にまた台風が近付いている。大粒の激しい雨が降ったかと思えば間も無くしてそれが嘘のように晴れ渡る。性急で気紛れな大空の交響曲。その出鱈目な指揮の動きに合わせて大勢の蝉たちが鳴いたり一斉に鳴き止んだり、街行く人々も傘を開いたり閉じたりと今日は忙しい。冬子もそんな末端の演奏席をうろうろとしている一人だった。彼女の楽器は透明なビニール傘だ。それは数カ月前の丁度こんな日傘を持って無かった彼女が百円均一で購入したもので酷く小さい造りで更には受骨の一本が折れてしまっている。冬子はこの傘をとても気に入っていた。安っぽくボロボロ。自分にお似合いな気がしていた。真っ黒な半袖のワンピースを着た彼女は雨が降る度にそのビニール傘をくるくると回転させた。それが彼女お得意の演奏方法だった。ほら、また雨が降ってきた。冬子がぎこちない手付きで傘を開こうとしている。受骨が折れているから傘を開くのも一苦労だった。しかし冬子の手は急に止まった。何か変だ。雨が降っているのにとても明るい。明る過ぎる。冬子は傘をそのままに空を見上げた。それはとても不思議な光景だった。空は端から端まで遍く灰色の重たい雲に覆われている。なのに彼女の真上だけは四角く青い空の穴がぽっかりと空いている。まるで窓だ。その窓の中には太陽が浮いていた。ぎらぎらと眩しい光と熱を放ちながらこちらを見ている。冬子の顔が上気した。太陽は彼女の神様だった。「今日という日は貴方の御顔を見る事は出来ないと思っていたのに」更には夥しい数の雨粒がそんな太陽の光をきらきらと纏って降り注いでくる。黄金色の雨粒。それは冬子の髪や腕、真っ黒なワンピースを濡らした。とても温かい。冬子は興奮した。まるで太陽の精液を直接浴びているようだった。
「あの御方が窓の向こう側から精を放出なさっている」それは無限に続くかのような射精だった。植え込みのつつじ、その緑の葉一枚一枚の一面に、道の脇に止まる白い自動車の屋根の上に、黄金色の精液は至る所に降り注ぎ、張り付いて、甘い匂いを辺り一帯に漂わせていた。青いベンチの上に鳩が座っている。もう雨に濡れてびっしょりの羽毛。でも鳩はとても気持ち良さそうにうっとりと目を瞑って動かない。その鳩を見て冬子の興奮は更に高まった。
「もったいない。もったいないわ」冬子はビニール傘を道に捨てた。彼女の楽器を捨ててしまった。両手と両腕を大きく広げ、冬子は顔を空に、窓の中の太陽へと晒した。冬子の蒼白い顔が黄金色に染まる。温かい雨粒が見開かれた黒い瞳に溢れ、視界が蜂蜜色に歪む。
「もっとかけて。もっとかけて頂戴」激しい雨は冬子の額を打ち、鼻の先を打ち、頬を打った。温かい雨は大きく開かれた冬子の淡い桃色の唇を打ち、白い歯の表面を打った。そうしてその黄金の液体は冬子の赤い舌の上に流れ着くとそのまま激流のような勢いで彼女の暗い喉の奥へと落ちていった。冬子はそれを一滴も残さまいと喉を震わせて飲み干した。冬子は瞬く間に全身びしょ濡れになった。そんな彼女に道行く人々の奇異と恐怖と好奇心の入り混じった視線が突き刺さる。しかし冬子にはもう関係が無かった。冬子と太陽は一つになっていた。彼女は完全な幸福に充たされていた。だが、そんな幸せも長くは続かなかった。冬子は突然その場に崩れ落ちた。もう空を見ていない。汚い地面を見ている。その二つの瞳には雨ではない涙が溢れていた。冬子は気付いたのだった。冬子は気付いてしまったのだった。それは精液などでは無かった。勿論、雨粒などでも無かった。それは血液だった。それは太陽の血だった。冬子の神様はあの窓の向こうで死に絶えようとしていた。自分で自分を切り裂いて死んでいこうとしているのだった。
「そんな事も知らずに私はあの御方の血をはしたなくも飲んでしまった」完全に孤独なあの御方。きっとあの御方もあの窓を見ていたのだろう。でも、その窓には…。冬子は瞳を閉じた。何も見えない。完全な闇が広がる。それが彼の持っている唯一の窓だった。冬子は再び瞳を開いた。「どうしたら。どうしたらいいの?」するとさっき捨てた彼女のビニール傘が目に入った。悲しそうに横たわる彼女の楽器。透明なその身体が黄金色の雨に輝いている。冬子は興奮してその傘を手に取った。傘を開いてその中の折れた受骨を見詰める。爛々と輝きだした瞳。冬子はその黒い受骨を思いっきり引っ張った。受骨は驚く程簡単に千切れた。冬子は再び空を見上げた。窓の中の太陽を見詰める。ぎらぎらと眩しい光と熱を放ちながらこちらを見ている。しかしとても悲しそうに見えた。冬子は微笑む。「もう大丈夫です。私が貴方の太陽になりますから」そう言って冬子は真っ黒なスカートの裾を捲り上げた。真っ白な太腿が露わになる。最初の雨粒がそこに落ちるよりも早く、彼女は先端の尖った黒い受骨をその太腿に突き刺した。
 それは苦痛というよりは非常な衝撃だった。しかし直ぐに鋭く焼けつくような痛みがやって来る。眩暈がして冬子は歯をきつく噛みしめた。受骨を引き抜く。その小さな穴からゆっくりと赤い血が噴き出してくる。冬子の白い太腿が血に汚れていく。みるみると赤い血が溢れ出してくる。黄金色の雨粒がその血の上に降りかかり一つになる。道行く人の悲鳴と怒声が聞こえる。男たちが彼女を止めようと駆け寄って来る。しかし冬子には関係が無かった。何度も何度も黒い受骨を太腿に突き刺す。「まだよ。あの御方の苦しみはこんなものじゃない。まだなのよ。こんな血じゃあの御方を照らせない」男に肩を掴まれた。男に腕を掴まれた。「離せよ」大声で叫びながら身体を振り回し冬子は必死に抵抗する。しかしすぐ地面に押し倒されてしまった。黒い受骨を取り上げられてしまった。スーツを着た眼鏡の男。ポロシャツを着た若い男。その二つの顔の間に窓が見える。太陽が見える。あの御方の顔が見える。黄金色の雨粒が降り注ぐ。冬子は真っ赤に染まったその両手をその窓に向かって差し伸ばした。「見えていますか。見えていますか。これが私の太陽です。私の赤い血は貴方の事をちゃんと照らしていますか」