石の宗教の誕生

 もう暫くすると紫陽花が満開になる。それから蝉たちが鳴き始める。言い換えるとそれは紫陽花の復活であり、蝉たちの復活だ。去年枯れていった紫陽花や散っていった蝉たちの事を我々は知っている。そのようにして我々日本人は生命というものの復活を容易に信じる事が出来る。終わりは始まり。始まりは終わり。春夏秋冬、四季の巡りがある事によって我々の時間はぐるぐると回り、その事によって自然生命の法則、法、言葉というものの永遠を頭ではなく肌で感じ取る事が出来る。仏教の輪廻思想を待つまでもなく我々日本人は永遠に続く生命の円環を知っていた。輪廻思想はその実感を理論化したのに過ぎない。だから我々は繰り返し繰り返しの時間の中を生きている。時計というものが発明される遥か前から丸い時計の中に閉じ込められているのだ。しかし、砂漠は違う。砂漠での時間は一直線だ。春も秋も冬もなく、あるのは永遠の夏、それも地獄の夏で、ひとたび滅びた緑のオアシスは黄色い砂の中に飲み込まれ二度と復活しない。残酷な太陽の熱波は容赦なく時間を前へ、最後の審判へと向かって押し進め、結局最後には骨、石のように硬い白骨だけが残される。そうだ。この骨だけだ。ありとあらゆるものは滅び去る。骨、更にはもっと硬い石だけが永遠なのだ。ユダヤ教キリスト教イスラム教。石、非生命的なるものへの信仰と厳格なリアリズムの精神はおそらくそのような逃げ場のない酷烈な太陽の下に誕生したのだ。