復活したヴィーナス

 書くという事は殺すという事である。マゾッホは毛皮を着たヴィーナス、ワンダという一人の女性を描き切る事で彼女を殺害した。そうして彼は彼女から自由になった。マゾッホはワンダを殺すのと同時に古い自分自身を殺害したのだ。その苦しい脱皮を経て新しい自分へと生まれ変わったのだ。しかし暫くの時を経て、ワンダは死の淵から復活して再び彼の前へと現れる。まるで自分を殺してしまったマゾッホへ復讐するかのように。
 毛皮を着たヴィーナス、ワンダは本作品に於いて聡明で才智に溢れた教養ある美しい貴婦人として登場する。しかしその香しい高貴な女性のイメージは巻末の種村季弘の解説によって大きく残酷に裏切られる。それは一枚の肖像写真である。
 解説によるとマゾッホは本作を書いた後、一人の女性と出逢い、その彼女を妻に迎えるとともに彼女を理想の毛皮を着たヴィーナスへと仕立てたという。その際彼女の名前も変えさせた。勿論それはワンダという名前である。マゾッホは小説で実現した夢を現実に於いても実現しようとしたのだ。実際、小説と同じように彼と彼女は女主人と奴隷の関係となり、小説と同じように現実の二人の関係もワンダの残酷な裏切りによって幕を閉じる。それは作中でも言及されているピュグマリオンの逸話、自身が創造した彫刻の女性に恋をした芸術家のもとにその女性が現実の肉体を伴って現れるという話を無理矢理に作り出したかのようにみえる。ただ問題は実際の現実のワンダの肖像写真だ。
 墨で書いたような野太い眉、石を圧し潰しそうに強い眼差し、一見すると男のようで、それは洗練や気品とは遠くかけ離れている。荒い野性そのもの盤石な大地そのもののような顔付きなのだ。彼女は貧民街のお針子だったという。しかしその風貌は野太い木を何本も簡単に切り倒しそれを平気で運ぶ山のきこりの女のようにさえ見え、小説の中の洗練された美しい貴婦人ワンダのイメージとはまるでかけ離れてしまっている。
 これは一体どうした事なのだろう。マゾッホは現実と妥協してその場しのぎに粗雑なワンダをこしらえたのだろうか。
 いや、そうではないのだ。彼の小説に書かれる事によってワンダは一度殺されただろう。しかし、作者自身が脱皮して生まれ変わったように彼女も復活して著しく進化を遂げたのだ。それはもはや毛皮を纏い鞭を持つ必要もない程に圧倒的生命力を持った自然そのもののような女だった。
 身体の筋肉がその死の鍛錬によって増大していくようにマゾヒズムの力もその死に晒される事で増大していくのだ。それは彼の着込む衣装が更に分厚くなる事を意味する。もはや以前感じていたような苦痛と苦悩では満足出来なくなるのだ。もっと激しい苦痛と苦悩を、もっと残酷な運命の女神を。彼自身はどんどん小さくなっていき、彼の理想の女はどんどん大きくなっていく。苦痛と苦悩の果てしない探究者。マゾッホはこの後一体何処に行ったのだろう。解説によると彼はその後トルストイ主義に傾倒していったようである。